プール雨

幽霊について

たちなおりかけの姿勢

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 このところ、津村記久子の『現代生活独習ノート』を読んでいました。朝、紅茶を飲みながら、または夜、ふとんのなかで。そしてお風呂には持って入れなかった。

 私はお風呂で小説を読みます。夕べは西村賢太『夜更けの川に落葉は流れて』を読んでいました。リズムのよい、とぎれのない文章のせいで長湯してしまいました。長湯はあまり体によくないと言われますが、お風呂で本を読むのは楽しく、ほかほかになって湯からあがりました。

 でも、『現代生活独習ノート』はお風呂に持ち込みませんでした。ゆっくり読みたかったからです。じゃあ、西村賢太はどうなのかと問われれば、これはもう、速度のある文章、はやく読んだ方がいいに決まっています。

 津村記久子の文章はゆっくり読むのに向いています。書かれていることは、疲れ果ててリフレッシュ休暇をとった人が、夜中にいつのまにか録画されていたどうということもない番組をぼんやり見ている昼下がりや、祖母・母・娘三世代による冷蔵庫の陣地争いや、区が年に一度発行する『現代生活手帖』を楽しみに暮らしている人の毎日や、フレネミー的なものに悩んでいる人同士の集まりで起こるどたばたなどなど、特に「価値」や「意味」または「教訓」のようなものとは関係のない日々のことです。

 「粗食インスタグラム」という、自身がいかにしてその粗末な夕食にたどりついたか、その奮闘をこつこつ語る短編を読んでいるとき、私の脳裏に浮かんでいたのは、友人たちのなかでも特にやせている二人のことでした。やせの大食いという人もまれに見かけますが、やはりやせている人は食が細いことが多く、「何をたべたいかわからない」と口にすることもままある。パスタひとさらを最後までたべきれない彼女たちを見ると、「たいへんそうだ」と思います。毎度毎度、食べることに苦労が伴うと、食べることについて考えるのが嫌になってしまう瞬間もあるだろうなと思う。

食べることに疲れていて、自分はそのことに罪悪感があるのかもしれないと思う。しかし食べることは私にとっては判断を伴う。私は判断がもうしんどい。けれども何かを食べないと生きていけないのは理解しているから、せめて悲しい食事で生きようとしている仲間を探して安心しようとしている。 (津村記久子「粗食インスタグラム」より)

 この主人公は痩せているだろうなと思う。そのせいもあってか、職場では食べ物をもらうことが多い。飲み会ではたまたま斜め前に座っていた人が、何も食べていないじゃないですかと心配して焼き鳥を小皿に載せてくれ、「注文しといたよ」とウーロン茶(苦手なのに言い出せない)を手配してくれる人もいる。そして、彼女が炊き込みごはんなら食べられるとわかると、炊き込みごはんのお茶碗がどんどん彼女の前に集まってくるのだった。

 津村記久子の文章を読んでいるときは、頭のなかが静かだ。しーんとしていて、私はただただ、酔っ払ってとんでもないものを通販に注文してしまった人の話や、休日出勤で上司の連絡を待っている最中に姿を消してしまった先輩の話を読み、くたびれていた人が、ちょっと外に出て、冷凍うどんでも買ってこようかなと多少元気を出す現場に出会う。

 元気という言葉は出てこないのだけど、人が立ち直る現場のそばにいて、自分も元気が出ているなと思う。

 

📚 おしまい 📚