プール雨

幽霊について

それは狂気ではありません『パディントン発 4 時 50 分』

 アガサ・クリスティーパディントン発 4 時 50 分』松下洋子訳を久しぶりに読みました。

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 初めて読んだときと比べて、しみじみとおもしろかったです。じっくり読んでしまいました。

 汽車と汽車がすれ違うその間に、もう一方の車中で起こる殺人事件を目撃してしまったエルスペス・マギリカディ。恐怖を味わいつつも、市民として務めを果たすべく、駅員にも警察にも今見たことを報告しますが、「見間違えたんでしょう」と相手にしてもらえません。エルスペスがそのことをジェーン・マープルに相談した夕方には、二人は「でも、殺人があった以上は被害者がいるのだし、その死体が出てくれば事件化されるから」とまだ楽観視していました。いずれ明らかになるでしょ、と。ところがそのとき目撃された被害者は見つかることなく、エルスペス・マギリカディの証言はとりあってもらえません。そこでジェーンは考えます。エルスペスは想像でものを言う人じゃない。彼女が「見た」というのだから、それは現実に起こったのだ。なのに、死体が出ないのはなぜか。答えはひとつしかない。誰かが隠したのだ。それを探し出さなければ。さて、一体だれにそれを頼んだらいいかしら……そうだ、彼女だわ。

 という具合に事件は始まります。

 まだ露見していない事件。まだ見つかっていない死体。それを見つけるために派遣されたのは、凄腕料理人にして家政婦のルーシー・アイルズバロウでした。彼女は現場近くのクラッケンソープ家に家政婦として入り込み……。

 マープルものの醍醐味は、彼女の代わりに現場に臨むもうひとりの探偵です。マープルは高齢なので、人の話を聞き、お茶を飲み、考え、多少は歩きますけれど、そうそう潜入めいたことはできません。そこで、どの長編でも、マープルの代わりに、語り手がスポットを当てている登場人物が登場します。今回は現場に潜入するルーシーと、スコットランド・ヤード捜査課警部、クラドッグです。

 クラシカルな探偵ものでは、切れ者の探偵に比して、警察側が愚鈍に描かれたり、探偵を邪険に扱うイヤな奴として描かれたりしがちですが、この『パディントン発 4 時 50 分』はそうではありません。このクラドッグは実直で粘り強く、また捜査に予断を持ち込まず、証拠と事実が集まるまでは安易に推理しません。世が世であったなら、この人が主人公のミステリがあったかもしれないなと思うほど、優秀です。それはルーシーも同じで、この二人の探偵役の活躍も楽しいポイントです。クラドッグ、ルーシーが捜査している間、数十頁にわたって出てこないジェーンが何してるのかなと思うのもまた、楽しい。

 ルーシーの場合は、二人の男性に心惹かれ、彼らもまたルーシーに惹かれるという境遇にあり、彼女のこの迷いが小説にもうひとつのミステリをもたらすことになります。ルーシーは結局、だれと生きる道を選ぶのか。こちらも読んでいてはらはらしたり、じりじりしたりとても楽しいポイントです。

 全体として、いかにもジェーン・マープルらしい小説で、じっくり読むのに適しています。

 おすすめです!

 私がマープルを好きなのはいくつか理由がありますが、今回は以下のやりとりに、「ああ、いま、マープルを読んでいるなあ」と喜びをおぼえました。

「また人が死ぬと思うか? まあ、そんなことにならないように祈りますね。でも、わからないものでしょう? しんそこ悪い人がいるとね。今ここにはたいへんな悪意が満ちていると思いますよ」

「あるいは狂気」ルーシーは言った。

「そりゃ、そんなふうに物事を見るのが現代ふうだとは知っていますけれどね、わたしはそうは思いません」(アガサ・クリスティーパディントン発 4 時 50 分』松下洋子訳より)

 ジェーンは、人が欲に突き動かされたら、何だってしますよ、と言います。驚くような邪悪なことをね。そしてそれを人は「狂気」と言って、あの人はおかしくなってしまったのだ、の一言で終わらせようとしてしまいます。ジェーンはそういうとき、「わたしはそうは思いません」と言います。私たちと同じ人間が、日常の積み重ねのうえで、時にお金のために、時に名誉のために、時に愛のために、罪を犯すのです、と繰り返します。ジェーンは「狂気」の冠で罪を自分から遠ざけません。そこがジェーン固有の強さであり魅力だなと思います。私たちと同じ人間が罪を犯している。同じ人間としてそれを明らかにしなければいけない、それが責任というものだ。その信念に触れる度に心強く思います。

 「くるってる」と人のことを言いたくなるときは私にもあります。でも、逃げてはいけませんね。その人はくるってなんかいないのです。まったくまともで、その人なりの了見と考えに基づいて、他人を傷つけてよいと自分に許したのです。それは悪意にほかなりませんし、罪を犯したという間違いに、私もその人も向き合うべきなのです。*1

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📚 おしまい 📚

*1:11月29日、「たり」の並列用法の間違いを発見して訂正しました。あわせて、すこし加筆しました。