プール雨

幽霊について

心の中にいる人

 日本人は権威嫌いと言われたり権威主義だと言われたりイメージが右往左往しています。私は「内面化している権威に明確なイメージがあって、その像がイエスといえばイエスだし、ノーといえばノー」的な考え方をする人が多いんじゃないかと感じています。その、個々の心に鎮座している権威がおおむね「あほぼん」の姿をしているのではないでしょうか。多くの人の心に、わがままなあほぼんがいて、自分の選択と思い込んでいるものの多くが、実はそいつに振り回されていただけ、というのが実態に近いのでは。権威主義的なふるまいをする人の言動をよく見ていると、基本的には身分秩序を重視していて、相手の身分に応じて態度を変えるんだけど、研究者や作家なんかには最初から反感をもっていたりする。専門職嫌いという人も多い。一見すると矛盾しているこうした性向は、かれらの中にある権威のイメージが「(自分以外の)権威を嫌うおぼっちゃん」だという仮説のもとで考えると筋が通ることが多いのです。

 「光る君へ」では円融・花山と二代続いて天皇を、人を人とも思わないあほぼんとして描写して、それで特に抵抗も起きず視聴者に受け入れられています。よくある描写というか、視聴者の権力観に沿うものなのだと思います。花山天皇に関してはあほぼんであるという噂を流しているのは藤原道隆ファミリーだというひねりも効いているとはいえ、足で扇子を開け閉めして、ずっと年長の男性の前で閨の話を続けて閉口させたあの描写に、「権力者とはこうしたもの」としっくりきてしまう素地が日本語なのか、日本社会なのか、それがどこかはわかりませんがあることはある。多分。多くの人の心に巨大な幼児がいて、そいつが「やだ」といえば「やだ!」、そいつが「これ、好き!」といえば「オッケー」的に思考が構造化されていやしないか、時折ご自分の心をチェックしてみるとおもしろいかもしれません。

 私の場合、心の中で権威があるのは「おばあちゃん」です。実在しない、理想化されたおばあちゃんで、普段はずっと寝ています。でもこのおばあちゃんが「ダメだよ、雨子」って言ったらダメなんです。おばあちゃんはめったに「ダメだよ」とか言いません。言うのはよっぽどのことです。いつかの選挙で、だれにも投票したくないと私が言いかけたとき、おばあちゃんが言いました。「それでもマシな方を選ぶしかないよ」と。私はがっくりとうなだれて、少なくとも差別主義者ではない方に投票しました。落選しましたが、公的に、差別主義者じゃない候補者に集まった票としてカウントされたことはよかったと思います。このように、カッとして、事態をめちゃくちゃにしてしまいそうなとき、おばあちゃんは私を諫めます。

 おばあちゃん以外にも色々いるのですが、話がややこしくなるので、最高権力者として、おばあちゃんのお話をするに留めておきます。

 元首相が長期にわたって支持を集めたのが、私にはずっと不思議でした。その人はあほぼんとして有名でした。小学校のときから自分で宿題はせず、乳母と母親にやらせ、大学では指導教官が「単位を出した覚えがない」と言っているのに卒業できてしまった。そして、そうしたエピソードの数々を多くの人が知っていた。あほぼんは不動産ブローカーに選挙協力を頼み、約束通り対価をはらわなかったために事件に発展したこともあります。これは裁判に至っていて、文字通り衆目の事態だった。私は当初「この状況にもかかわらず、支持を集めているのはどうしてなのだろう」と考えていました。間違ってました。「あほぼんで、あほぼんであることをみんな知っているのに、どうして支持を集めるのだろう?」という考え方が間違っていて、実態は「有名なあほぼんであるがゆえに支持を集めていた」のだと思います。そう考えるとしっくりきます。多くの人の心に宿る、巨大な幼児の顔をしている権力者像にぴったりはまるのが彼だった。権力者としてあまりになじみ深い、イメージ通りの人だった。

 と、そんな愚にもつかないことをすべて想像で考えているのでございます。

 私はたまに、「私を誤らせるのはだれか」ということを考えます。それで「私自身だな」と確認できるときはしょうがないなと受け入れています。「うっかりしちゃった」「間違えた」と指さし確認して訂正すれば済むことです。それが、だれかに首根っこをつかまれ、または背中に銃口を当てられたような気分になって、言いたくないことを言わされるようなことになるととてもややこしくて、一人では問題を解決できなくなるので、絶対にそういうことにはならないように気をつけています。

軒先で、音をたててとけていく雪

☃ おしまい ❄︎