芸能山城組のこの曲はよく聞いているのに、『AKIRA』(1982〜1990)を読んだことないなと思い、読んでみました。「第三次世界大戦から 30 年、翌年開催の東京オリンピックを控えた 2019 年の『ネオ東京』」という物語の発端を聞いて「今バーンと売ればいいのに」と思った 2019 年。あれから 6 年。ワーナーがついに映像化権利を手放した今年、2025 年、すべてが終わったあとで読み、「あ、こういうイメージいろんな映画と重なっているな」とか「この漫画がなければあれもこれもないのかあ」とかしみじみしました。
終盤になると「どうやったらこれが終わるのか見当つかない」というゾーンに突入し、かなり読むのが大変になりました。
新鮮だったのは、主人公たちがほんとうに子どもで、頼りないことです。子どもの皮をかぶった中年なんかじゃなくて、ほんとに子どもで驚きました。その子どもたちを未来へ押し出してやるというイメージがよかったです。
それで「読んでみるものだなあ」と気を良くし、つづけて『機動戦士ガンダム』(1979〜1980)を見ました。子ども達が戦争に巻き込まれて、避難しているつもりが軍隊に組み込まれ、逃げられなくなっていき、最後はしかしガンダムもホワイトベースも壊れて武装解除にいたるという話で、ちょっとおもしろかったです。シオニズムが背景にある話で、これを子ども向けのおもちゃを売るためのアニメでやったんだなあと、驚きました。単純に、敵が外部からやってきてそれを倒すという話ではなく、大きな戦争と政治のうねりがあって、全体像が見えないまま、子どもたちはその端っこで巻き込まれ、生き抜こうとし、無理矢理子ども時代に別れを告げさせられます。印象的だったのは、ジオン軍からの逃亡兵をアムロが武装解除させてあげる話で、その頃は見ながら、この子ども達、どうにかしてこの戦いから逃走することはできないのか、とはらはらしていました。おもしろかったと思います。ただ、ガンダム賢人にお話を伺うと打ち切りとの戦いがあったとかで、見ていて不自然に話が飛んでいる箇所もありました。「あれ、一話見逃したかな?」と慌てて戻って確認してみたり。そして、終盤の十話くらい、ニュータイプが前面に出てくると、わりかしお話はしっちゃかめっちゃかになり、急速につまらなくなりました。それでも最終回は見事な終わりっぷりで、やっぱりちゃんと終わると見ていて満足感もあるし、多少は「よかった、よかった」という気にもなれました。
『機動戦士Ζガンダム』(1985〜1986)は一年戦争後七年経って、地球連邦軍内で内戦が始まり、そのどさくさでジオン軍が再度力をつけてしまうという悲惨極まりない話で、夢も希望もありませんでした。
「私のガンダム」はここで終わり。
なんでかっていうとシャア・アズナブルに全然興味がわかないから。
『ガンダム』でも『Ζ』でもシャア・アズナブルという人の無力さが印象に残りました。わりかし言うことがころころ変わるし、逃げ足が早いだけで、政治家としてもさして支持は得られないだろうと思いました。彼のスピーチは言っていることは穏当でも、文体に統制の匂いがあり、それを人々はどうしたって嗅ぎつけてしまうだろうし、その今ひとつ支持が広がらないだろうシャアを生かすために若いパイロットたちが死に急ぐようなくだりはどうにも納得がいきませんでした。
「冷蔵庫の女」博覧会みたいな展開にいたっては、いくら当時の男性が書いた話とはいえ、、社会学のテキストにもならないお粗末さがありました。女性登場人物の描写は『ガンダム』から『Ζ』に至る過程で後退していて、貧しかったです。
結局「ニュータイプ」という概念がネックになってしまったような気がしました。新しい人類が宇宙で育てば戦争もなくなるとシャアは悠長なことを言っていますが、そんなことしてるうちに若い人は死に、人間の生きる環境は荒廃し、人々は貧困にあえぐことになり、「宇宙に出る」もへったくれもなくなってしまうのではないでしょうか。
若い世代は、我々オールドタイプとは違う。かれらが未来を変える。と、多くの作家が言いました。しかし、若い世代とはつまり、この世に生まれて間もない人たちで、生きることには素人で、かれらがのびのびと力を発揮できるようになるには、そうできる環境構築こそが大事で、それは大人の仕事。生まれてきた人に「ようこそ!」と言えないような世の中にしておきながら、「あとは若いもんに任した」では無責任極まりないです。
「この環境では人間、健やかに生きていけないよね」ということを『Ζ』のカミーユは体現していて、そのことは話のつくりとしてリアルで正直ということかもしれませんが、私にとっては「虚構内人物人権機関報告案件」です。戦争が終わらない現実の中で、戦争が終わらないアニメをつくり、その中で子どもたちは死ぬか病むかしてしまい、だがおもちゃは売れるという事の経緯は悲惨です。
『機動戦士ガンダム』にはあった厭戦、反戦の雰囲気が『Ζ』では薄かったのも気になりました。その後退はリアルだけど、そんなの、新聞を読めばわかるので、だったら私は新聞でいいです。
全然人間を大事にしないし、物語る動機が見えないドラマでした。告発なんでしょうか。「この世はクソだ。子どもが生まれてくる価値などない」という。
『AKIRA』、『機動戦士ガンダム』『機動戦士Ζガンダム』 に共通していえるのはエネルギー収支とか気にしてないな、ってことで、どれも「戦後」がそのまま新しい戦争につながってしまう話でありながら、莫大なエネルギーを食う機器を使っていて、作家陣の「大きな力」へのこだわりに驚きました。人口が半分になったら、そもそもインフラ維持できないし、あんなバカみたいなでかい武器、量産できないと思うんですよね。でも、「戦争してる」ってこと以外は豊かなんです。特にΖガンダムは。ガンダムは難民の暮らしも出てくるんですけど、『Ζ』ではいきなり死体になってるか、ふつうに暮らしてるかのどっちかで過程がない。見ていて、「この、戦争してる人たち、優雅だな」とすら思いました。Ζが虚空に放った弾丸一発で庶民の暮らし何年分なんですかね? その尽きぬパワーが前提となっている世界観を見ると、うーん、なんだろ、どうしてもやっぱり子どもっぽいとしか、今は思えないです。
📺 おわり 📺