毎年、近所でいちばん最初に咲く梅。
あっ、めじろだ。
「梅にめじろ」状態を一度きっちり写真に収めてみたい。
今日はこんなところでいいか。
猫を追いかけて隣の市までやってきました。
つい、よその自治体の図書館をうらやんでしまう。
でもこの図書館は書架の並びがランダムで調べ物にはむかないことを知っています。時々ここまで来ざるをえないからです。
べ、べつにうちの近所の図書館に対するフォローで言っているわけではないんだからね!
事件はこのあとに起きました。
たまに行く、開店時間がよくわからない古本屋。多分もう開いているだろう、さすがに昼過ぎだ、と思いつつ伺うと、店頭で店主がなにやらやっているので、「こんにちは〜」とぐいぐい入ってしまったのですが、なんとまだ開店準備中だったのです。お店の方は「いいですよ、どうぞどうぞ」とにこやかです。でもこちらは「もうこの店を手ぶらでは出られない」と緊張しました。私は今、積ん読が過去最高にきわまっており、「これらの山を(ある程度)くずすまでは本の新規購入はまかりならぬ」と自身に厳命しているのです。
が、こういう事情じゃしょうがないですね。と、手に取った萩原朔太郎『猫町』の市川曜子挿画版。
御薬を召してらりらりっとするのが好きな「私」がその習慣のせいで体調をくずしたので、医師から「散歩せよ」と言われ、おとなしくお散歩するものの三半規管に問題があるのか、近所で迷う、迷う。そんな具合で某温泉地に滞留したところ、アリス・イン……的なことが重なり、「私」・イン・猫町とあいなるわけですが、私は御薬もやらないというのに、
見たことない橋を越えたら、
「ここはどこ!?」というところにたどりつきました。
まだ日があるので最終的には太陽を見て方向を確認すればいつかは家に帰れるとはいえ、本格的に道に迷い、多少不安になりました。
しかし宇宙の間には、人間の知らない数々の秘密がある。ホレーシオが言うように、理智は何事をも知りはしない。理智はすべてを常識化し、神話に通俗の解説をする。しかも宇宙の隠れた意味は、常に通俗以上である。だからすべての哲学者は彼等の窮理の最後に来て、いつも詩人の前に兜を脱いでる。詩人の直覚する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実在なのだ。 (透土社版『猫町』p.26 より)
こういうことを考えているうちに「私」はどえらいことになってしまうのです。気持ちはわからないでもないが、「秘密」「隠れた意味」「超常識」「真の」あたりにやや、「そういうことを言っているからああいうことになってしまうのではないか」的なものを感じます。
宇宙の真理とは無関係に、無事、家にたどりついて、コーヒーを飲みました。
いつも行くお店じゃなかったので、そのお店のブレンドを買ったのですが、これがなかなかおいしかったです。
🐈 🐈 🐈 🐈 🐈 おしまい☕