プール雨

幽霊について

「推し」考

私には「推し」という言葉がわかりません。 「推し」は私の誕生より大分後に誕生した言葉で、気づいたらみんな使っており、発生の現場に立ち会っていないので用法がわかりません。 だがもしかして、この状態が「推している」ということなのかなあ? と思うようなことが最近ありました。(当ブログ 2022 年 9 月 5 日「夏の終わりに 2022」)

 「推し」という言葉を使うことにためらいがあって、できれば使いたくないのです。単に惹かれている、好きだというだけのことが、その言葉で語られると、市場で受け入れ可能な消費行動に置き換えられてしまうような気がするからです。

 とはいえ、ここまで「推し」という言葉が一般に受け入れられ広がってしまうと、文脈上ほかの言葉で置き換えが難しいような場合も出てきます。

 たとえば、このブログでの「推し」用例は以下の通りです。

  • ごりっと新字体推し(2014 年 9 月 1 日「今月の雑誌」)
  • 今日はインターネットの中で『しっかり学ぶポルトガル語 』を激推しされています。(2014 年 12 月 17 日「『しっかり学ぶポルトガル語 』」)
  • 武蔵野館ではひつじと緑の地獄と孫とラブを強烈に推していました。(2016 年 1 月 16 日「新宿武蔵野館」)
  • 長浜の石田三成推し(2016 年 9 月 24 日「琵琶湖と私」)
  • その方は「ラブ・フィクション」を熱烈推し。(2017 年 5 月 26 日「お目当て」)
  • まずはおのおの、推し田中の写真でも見て。(2018 年 11 月 19 日「田中トランプは田中だけで」)
  • (´-`).。oO(…でも竹中夏海先生の推し駅は飯田橋だからなあ…)(2019 年 4 月 11 日「推し駅」)
  • 江戸東京博のミュージアムショップは江戸推しでした。(2020 年 9 月 10 日「高まる物欲の行き場」)
  • 「ババヤガの夜」と「推し、燃ゆ」が載っているすごい号でした。(2021 年 2 月 1 日「『ババヤガの夜』にびっくりして『ワンダフル・ライフ』に恐怖して『アトミック・ブロンド』でどうしたわけかほっとした 2021 年 1 月」)
  • 私は与謝野晶子伊藤野枝岡本かの子樋口一葉を推していました。(2021 年 11 月 24 日「図録、それは重い」)

 一年に一回くらいは使っているようです。「推し、燃ゆ」は小説のタイトルだからちょっと置いといて、この中で用例として標準から大きく逸脱しているものはないと思います。私はすでに「推し」という言葉を使えてしまっているわけで、また「推し」という言葉を使うコミュニティにいて、そのコミュニティに好感や親しみをもってすらいるわけで、ああ、複雑なことになってしまったなあと思います。

 でも、まわりを見渡すと、名詞の「推し」については「推し」や〈推し〉のようにかっこつきで表記する人も散見でき、そこには「推し」という言葉を無印で使うことに対するためらいも読めます。

 ほかに何て言ったらいいかわからないなか、とりあえず「推し」と呼んでいる。

 ある特定のスポーツ選手やアイドル、漫画の登場人物などを特別だと思う、その人のことを考える、見る、聞く、応援するといった一連の心情の動きとそれに伴う行動を「推す」という言葉で表すと、まず「推す」と同時にほかの何かを「推さない」ことの表明にも繫がり、勝ち負けの要素が入り込みます。その勝ち負けはかなりはっきりとした結果として明示されます。また、「推す」ことに明確な行動が伴うことで「推す」気持ちの多寡が客観的に計れることにもなり、その点でも勝ち負けが生じます。ほぼ同じ内容の CD をたくさん買うこと、ライブに日参すること、そうした数量に換算できる行為によって気持ちの強さが客観的に表現でき、そこから「トップオタ(TO)」を頂点とする秩序が構築されていくことになります。

 誰かのファンである、縁もゆかりもない相手を好きだという状態をビジネスの文脈で理解可能なように飜訳した結果が「推し」だといえるかもしれません。そこには、ファンコミュニティの外部からの「そんなことして何になるの?」といった冷たい視線に対する防御を含んだ返答という意味合いもあるかもしれません。あるいは、「何の役に立つの?」と聞かれる度に律儀に答えてきた歴史がここに結実してしまっているのかもしれない。

 私はビジネスの言葉であらゆる営みが置き換えられていくのは嫌なので、そこからは距離を取りたいです。

 考えているのは、好きなものに対して自分が影響力を与えられるというファンタジーの魅惑についてです。あるアイドルが好きで、自分ががんばって CD をたくさん買い、配信やサブスクでも聞きまくって、ライブに行き続ければその人がいつかはグループでセンターを取れるようになる、ライブハウスのキャパが大きくなる、会場がホールになる、武道館に至る、といった道筋が見えていたとしたら、ついついそこに向かってがんばってしまいたくなる気持ちはわからないではありません。計画があって、それに応じた努力をその通りに重ねていけば、報われる、というのはゲームとしてすごくおもしろいし、好きな相手に影響力が行使できると思うと震えるような気持ちになるでしょう。賭けの要素もあるから、興奮は大きい。

 でも、ラジオを聞いていてたまたま耳にしたある曲のあるフレーズに感動してしまうとか、ふっとつけたテレビで踊っている人を見てがーんと衝撃を受けるとか、会ったこともないし会うこともないだろう人の声をすごく好きだと思うとか、映画でその人が出てくると頭がまっしろになって何も考えられなくなるとか、そういう体験にそもそも価値はあって、それは別にこの市場で役に立ったり何か生産したりするわけではないけれど、確かにすばらしい瞬間で、そして、それはビジネス上計測できる価値とは最初から最後まで無関係なんだと思うのです。なぜそれを市場の勝ち負けに向かって開かなければならなかったのでしょうか。

 ビジネスの場面ではビジネスの言葉で、それ以外の場面ではそれ以外の言葉で語りたいです。

 だからなんとか、「推し」以外の言葉で語りたいと思うのです。それはひとまず「アイドル」でいい。「私のアイドル」で。

お読みいただき、ありがとうございました

🎤 おわり 🎸