杜甫が高楼に上って、「この湖により東西に国が別れ、太陽も月もこの湖面がすべて受けとめているんだ」とかなんとか言っておきながら、最終的には「私もう故郷には帰れないよね、泣いちゃうっ」で締めてるところを読んで、スケールの大きな愚痴はいいなと思いました。「月は東に日は西に、でも泣いちゃう」みたいな大きな心から出てくる愚痴は、重い年月やどうしようもないものの前で経験や知識がきゅっと口をとじてじっと我慢しているようで、いいと思います。
というわけで今朝は中年の男がうろたえているだけの音楽を聞いていました。
いいよもう、みんなもっていけ、僕はいらないから、いいんだ、もっていってくれ、とあわてているだけの歌を朝っぱらから聞きながら膝の裏をのばす運動をしているときのどうしようもない時間をみなさんにもおわけしたいです。
いえ、こうなってくるともう、自分の口からも愚痴しか出ませんし、人の口から出る言葉も愚痴以外は聞きたくない、そんな気持ちになっている今日この頃です。どうせ聞くならきちんと聞きたい、他人の愚痴を。
「おれが知りたいのはだ」彼は言った。「これから天気がよくなるしるしだっていうんなら」唾を飛ばさんばかりの勢いで、「なんだって最初からいい天気じゃないんだってことだ。くされ雨を降らす必要はないだろうが」
(ダグラス・アダムス『さようなら、いままで魚をありがとう』安原和見訳 p.89 より)
英国では、サンドイッチはぱっとしないわびしい食物で、あらゆる面で食うに堪えないものと決まっている。そうでないサンドイッチを作るのは罪深いことであり、そんなことをするのは外国人だけである。
「ぱさぱさでなくてはいけない」という義務感が、集合的国民意識のどこかに埋もれている。「ゴムみたいでなくてはいけない。新鮮に保ちたかったら、週に一度洗うこと」
土曜の昼どきにパブでサンドイッチを食べることによって、英国人は国民として犯した罪の償いをしている。
(同書 p.98 より)
どんな文明でも、爪楊枝のケースにくわしい使用方法を書くほどになったら、もうまともな頭をしているとは言えない。そんななかで暮らして正気を保つことなんかできないよ。
(同書 p.218 より)
というわけで、私はダグラス・アダムス、杜甫、the National と、「古今東西ゲーム、愚痴っぽいおじさん!」で最初に出てきそうな三人の愚痴に耳を傾けながら、非常にめずらしいことに教訓を得ました。教訓、めったに得ないので新鮮です。それは「だれかが愚痴を言い出したら、黙って最後まで聞かねばならない」です。愚痴の磁場というものがあり、愚痴を途中で止めるのは大変危険なことであります。
イーサン・ホークは言いました。「なんのために生きてるかって? 人の打ち明け話を聞くためだよ!」ってね。
そういう記憶が私にはあるのですが、どうしたわけか典拠が見つかりません。台詞っぽいのも気になります。事実をたどる糸がありません。
さて、おじさんの愚痴はおいといて、私は本日、大事な買い物をいたしました。
やったあ。これで「ぱぴぷぺぽなのかばびぶべぼなのか」問題も解決。よかった、よかった。
さわやかな気持ちで外に出ると、近所の「いつもこわい顔のパンダ」が例によってこわかったです。
パンダには恵まれていないわが街ですが、植物はもさもさと元気いっぱいです。
木の下から木の下へ移動すればさわやかと言えなくもありません。
と、無目的に歩いていると新しい公園(というか、新築の家が建った結果生じた公共スペース)に新しい遊具が来ていました。
やあやあ、これは我が町初の「正しいパンダ」ではありませんか。ついに正しいパンダがやってきました。
正しいパンダとはどのようなものか。
正しいパンダ例その1
正しいパンダ例その2
これと、正しくないパンダを比べてみましょう。
おわかりいただけだろうか。
これらのパンダを救うために鞄のなかに黒マジックをひそませ、いつか丁寧にぬってあげようと思うものの、法律にふれると思うと、なかなか。
ではでは、おやすみなさい。