プール雨

幽霊について

『君たちはどう生きるか』を見ました

 宮崎駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』を見ました。

 ある登場人物による埋葬シーンがありました。ひとりで、一本のしゃべるを使ってこつこつ掘っていくんですけど、その穴が深くてねえ。それで「ああ、このひと、ものすごく、きっちりしてるんだなあ。これはたぶん、生まれつきだよなあ」とか思いました。これまで映画で見てきた埋葬シーンがふぁ〜〜と思い起こされ、やっぱり、あの映画の穴は浅かったなあ、おとなのくせに雑な仕事だったなあ、だからあんなことになるのであって……としみじみしました。

 試写会など、宣伝を一切行わないという不思議な興行形態で、それにより私は「映画を見る」という営みは予告を見たり、映画評を読んだりすることも含むのだと理解するに至りました。公開される何カ月も前からわくわくしてニュースを追ったり、「今度○○についての映画を某が撮るんだ」なんて聞いてびっくりしたり、映画館のシートで「ああ、どうなってるんだろう」とちょっと不安になったり、そういうことも「映画を見る」ことの一部だったんですね。いつの、どこの、だれがどうする話で、どんな世界観なのか一切何も知らずに映画館の席に座る経験は後にも先にもないと思います。すっごく特殊な映画体験をしたなあと思ってます。

 見たあと、次のようなことを考えました。

 日本映画は罪について語るとき、非常に歯切れが悪くなり、結局は「だれにもどうすることができないことだった。そのなかで人びとは必死に生きた。後に残る私たちはそのことを理解しなければならない」方式に陥りがちです。

 あらゆる場面で、責任の所在がたらいまわしにされ、それが一番上にあることが状況から明らかになるとみんな口をつぐんで、結局、「だれも悪くない」ということにしてしまう。

 「罪を裁く」以前の「罪を認識する」「罪を語る」というところにすらたどりついていません。

 それでも多くの人が『この世界の片隅に』を見たり読んだりしたとき、これでもう「戦時中も人びとは懸命に生きた」方式の語りはおしまいだ、これが決定版で、今後は戦争について別の語り方を見つけなければいけないと感じたのではないでしょうか。すずが「ぼーっとしとったけえ」と何度か繰り返す中で、自分もまた罪を犯していると自覚し、「なんもしらんうちに死にたかった」と泣き叫ぶことや、世界の片隅に自分を見つけてくれてありがとう、と思うに至る過程で、会ったこともない相手から死んでくれと思われている、憎まれているということを認識するといったことを見たあとでなお、「戦時中も人びとは懸命に生きた」方式を貫くとするなら、それははっきりと、意識的に罪を犯す行為だといってもいいでしょう。

 宮崎駿はそうした罪をテーマにしているわけではないので、このテーマに応答しなければならない義務は負っていないかもしれませんが、でも、彼のいる地点から応答するために苦闘してきたと思います。

 『風立ちぬ』は悪役が主人公でした。あの主人公は都合の悪い話は聞かず、悪びれることなく話題を変え、平気でウソをつく人間でした。無神経で図々しい。言葉でもって考え抜かないし、説明しない人で、それでいて/それゆえに自己嫌悪や罪悪感とは無縁な人でした。あの人は自分が設計した飛行機が一機も無事でもどってこなかったことは気にしましたが、人間のことは気にしませんでした。ああした主人公を描ききったところに、宮崎駿の作家としての集大成を見ました。宮崎駿の描く、悪意なく罪を重ねる男性の決定版で、その補助線に堀辰雄を引用したのがすごいアイデアだと思いました。

 ある時期までは夏になると必ず語られた敗戦経験。それを「終戦」とごまかし、あくまでも被害者として語り、教科書上の「侵略」を削除し、従軍慰安婦問題をなかったことにしようとするこの社会では数少ない、成功した戦争映画『この世界の片隅に』、『風立ちぬ』の背中には、重く、長い、決して罪を語ってはならないと頭をおさえつけられてきた日本映画の歴史があります。その歴史の最先端で、二つの映画は不気味な光を放っています。どれほど抑えつけても、いくら傍から見たら遅すぎる地点だとしても、体をひきずりながらたどりついたひとつの地点が『風立ちぬ』であったことは間違いないと思います。

 だからあれで引退と聞いたときは「なんと充実した作家人生だろう」と思ったくらいです。

 そこからさらに一段飛び越えて、『君たちはどう生きるか』には、「よくこんな主人公を描いたなあ!」と驚きました。主人公の生々しい存在感が新鮮でした。アシタカやハウル堀越二郎と苦闘してきた作家が、枷を取られて、思うさま描いたらこれになったんだなあという感じがしました。

 また、宮崎駿ものによくある、「あれ?」となる瞬間、「なにか見逃したかな?」と見ていて素にもどってしまう瞬間がありませんでした。論理の切れ目、感情の切れ目みたいなものがなかった。できごとと言葉と心の関係がスムーズで、洗練されていました。

 家父長制ばりばりの世界で、それ自体がテーマではないのですが、その制度の不気味さ、恐ろしさ、哀しさがきちきちと描かれていたのも印象に残りました。私の祖母は再婚だったのですが、晩年「いやだった」「来たくなかった」と言っていたし、そもそも結婚自体いやだったようなのです。そういうことを晩年になってから口にしていた、その横顔を思い出しました。私には「成田離婚していいから、一度は結婚してくれ」とまで言っておきながら、実際に結婚するとすごく悲しそうな顔で、「がんばれよ」って言っていたおばあちゃんのことを思い出してしまいました。

 そんなわけで、ジェンダー観はとても保守的。ケアする側とされる側がぱっきりわかれていて、それも物語のなかに組み込まれていて、こわさや不気味さとともに現象していました。

 また、物語についての物語でもあって、その辺がぴったりきっちり成功してちゃんとラストに向かっている貴重な作品で、とにかくその辺のスムーズさにはちょっとびっくりしました。

 気になったのはタイトルとエンドクレジットくらいです。『君たちはどう生きるか』というタイトルが浮いているような気がしました。エンドクレジットも宮崎駿にしてはおしゃれじゃなかった。

 まあでも、おもしろい、リッチな映画だったと思います。自分の好みや好き嫌いで考えずに済むような、贅沢な映画体験でした。

🎥 おしまい 🎨