プール雨

幽霊について

齋藤美奈子『出世と恋愛 近代文学で読む男と女』を読みました

 

 大学では近代日本語日本文学専攻だったのですが、基本的にずっと、そんなにわくわくしたりはしていなくて、「つら……」「苦……」という状態でした。

 日本の近代文学は監視・検閲そして自主規制とともにあり、その外側には支配階層による暴力の正当化と、当然の帰結としての性差別があり、貧困差別と民族差別と性差別が道徳化しているなかでぎりぎり抵抗(のポーズ)を見せるか、政治とは無関係と嘯いて荒唐無稽さに走るかという、芸術といい文学といいながら非常に選択肢が少ない、傷ついてぼろぼろのものを読み続けなければならないからです。

 それにもちろん、多くは男性のものであって、私そもそも読者として想定されてないですし。

 そんな風にすねてみても結局は、背中に「近代日本語日本文学」の歴史がどっこいしょーとのっかっていて、これと向き合わない限りどこにも行けはしないのです。

 齋藤美奈子はそんなこと、百も承知で正面からこれらと向き合い、ぐいぐいダメ男の森に分け入っていくのでした。ダメ男たちの何がダメって、好きな相手と決して向き合おうとしないこと。

 最初にいっておくと、近代日本の青春小説はみんな同じだ。「みんな同じ」は誇張だが、そう錯覚しても仕方ないほど、似たような主人公の似たような悩みが描かれる。

 ①主人公は地方から上京してきた青年である。

 ②彼は都会的な女性に魅了される。

 ③しか彼は何もできずに、結局ふられる。

 以上が青春小説の黄金パターン。「告白できない男たち」の物語と呼んでおこう。

(『出世と恋愛』p.4 より)

 そして恋愛小説ともなれば、①相思相愛の二人の仲が、②何らかの理由でこじれ、③女が若くして死ぬという「死に急ぐ女たち」のパターンを踏む。

 誇張ではなく、ほんとにそうなので、読みながら「なんでもいいから生きていて」「こんな男、どーでもいーじゃん!!」とうなり声を上げて、結局死なれると本気でおもしろくない。「つまらないのはとりあえず、いい。この際、いい。登場人物の人権を守ってほしい。死ぬの、だめだから!!」という私の基本姿勢が生まれたのはそのせいです。

 ほんとに、堀辰雄風立ちぬ』、ひたすらむかむかする……。

 齋藤美奈子は読者として常に登場人物の味方です。それがすがすがしい。常識や道徳や社会通念の味方なんかしません。いつでも「がんばれー!」と手に汗握りながら読んでいます。彼女のその思いにつられて、「今度まとめて、菊池寛を読もうかな」なんて思えるようになるのです。

 なんといっても、主人公たちから見れば幾重にも遠いヒロインたちの、時代により奪われた声を拾い上げるその読みが圧倒的です。

 さらに、監視と検閲と自主規制でただでさえぼろぼろだった近代日本の青春小説、恋愛小説に終わりを告げたのは結局戦争だったという事実に言及する終章に至ると、口惜しくて口惜しくてたまらなくなります。国にとって有用な人物たれ、という命令はいつ「国のために死ね」に姿を変えるかわからない。出世すること、ひとかどの人物として認められること、そうしたことを煽る社会を警戒しなければならないのは今もいっしょです。

 私たちの、ぼろぼろの日本語、日本文学は何か支え手がなければ自立することもできないような頼りないものです。読者ががんばっていかないと。『金色夜叉』の宮のがんばりなんて、なかったことになってしまいかねない。歴史否認と簒奪の指向は強く、粘り強いです。「文化」がお嫌いな方々は沈黙が好き。美禰子(『三四郎』)の、杉子(『友情』)の、宮(『金色夜叉』)の、荘田瑠璃子(『真珠夫人』)の格闘を読むことはそれ自体が抵抗になります。

 そういう気持ちになる本です。

 おもしろかった〜。

 登場する小説を読んでいなくても大丈夫。おすすめです!

📚 おわり 📚