プール雨

幽霊について

ストップ・ザ・ショー

 フィギュアスケートファンとして後悔していることが二つあります。一つ目は、橋本聖子によるセクハラに対して、明確なアクションを取れなかったこと。私は日本スケート連盟に抗議のメールを送りはしたものの、返信はなく、それで「この組織、ほんと嫌だな」と思っただけで、以後何もしていません。消極的に一切の支援をしないと決めているだけです。

 もうひとつはニコライ・モロゾフを「なんだかんだ言っていいコーチ」のように認識し、そのように表現していたこと。「なんだかんだ」の部分はセクハラ。あの時点でニコライ・モロゾフは生徒と恋愛関係になっては破綻することを繰り返していることが取り沙汰されていたのに、私は何のアクションも起こさなかった。どういうアクションがありえたかというと、単に「批判する」くらいしかないのですけど、それだって行動は行動ですから。

 これら二件のセクハラ、グルーミング問題に対して無力だっただけにとどまらず「まあまあ」と認めるような言動を取っていた自身を省みると、結局「選手を人質にされている」と認識してたことに行き当たります。人質にしているのはだれか、なんなのか、それを考える必要がありました。その入り口は、ショー・マスト・ゴー・オンの精神です。「ショー」のサイクルの中に自分もいました。今回の安藤美姫によるセクハラ問題に関しても、「ひとりの選手の未来」という言葉で沈黙を迫る書き込みが見られました。

 ジャニーズ問題にしろ、宝塚問題にしろ、こうしたことは延々繰り返されています。傍から見たとき「えっ、あんなことがあったのに、そのまま行くの?」としか言えない、「なんでなんで、止めなよ」「もうダメでしょ」と傍からは声が上がる事態です。外から見てると不気味としか言えないこと。

 自分もその中にいたんだなと振り返ってみて思います。

 ハロプロでもそういうことはありました。通称「ハロマゲドン」と言います。

 公衆の面前でセクハラやパワハラが行われたにもかかわらず、被害者はケアを受けるどころか、だれが加害者でだれが被害者かすらわからないような状況が続き、実態把握も困難な中で人権軽視の構造が温存されて、時間を経てあるいは経ずに繰り返される、そういうことが起こる。ファンの一部がそれに加担して、さらなる被害を生む。

 安藤美姫のケースでは、彼女がセクハラされるところをみんな見ていて、彼女はその中でそれを受け入れて、ケアされることもなく生き抜いて、「成果」を出し、今度は自分がそれをする側にまわっている。

 未成年の体に大人が触れることを、フィギュアスケートの文化のように語る行為を私は批判します。そんなことを言っているから、橋本聖子はセクハラと思わず浅田真央にハグを強要し、髙橋大輔にキスをし、そしてまたそれらは衆目であったにもかかわらず日本スケート連盟からは何の見識も示されることなく終わってしまった。

 でも、フィギュアスケートの世界も、自身の身体やセクシャリティについて発言したり、セクハラ被害を告発したりといった選手側のアクションによって、すこしずつですけど、変化しているように見えます。それを、かつて選手だった指導者側が止めることのないよう、告発や指摘を都度都度受けとめて、組織として公論化し、人間を大切にする言論を育てていってほしいと願います。