角を曲がって細い小路へ這入った時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊(ほそ)い手を額の所へ翳すようにあてがって何かを見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
夏目漱石『明暗』三
「細君」てたぶん、現状ではルビがついていないことが多いと思う。常用漢字で、特にひねった読みでもないから。
でも、ほぼ死語化まっしぐらというか、日常で用いることがないので(個人的には「どうしたわけか意外と生き残っている」という印象)、意味用法に関しては「目上の人には使っちゃいけないんだよね?」「自分の妻には使っていいんだっけ?」「ニュアンスがわからない」と不安になる方も多いと思います。私は使ったことがありません。
【細君】サイクン ①諸侯の夫人の称。②自分の妻を謙遜していう語。注 もと、前漢の東方朔トウボウサクの妻の名。③他人の妻。注 日本では、あて字で「妻君」とも書く。
『全訳漢辞海 第三版』*1
【細君】さいくん ①配偶者である女性。◇「妻君」とも書く。②東方朔とうぼうさくの妻の名。また、諸侯の夫人。
『新潮日本語漢字辞典』(用例を省略しました)
去年、この「細君」について、はてなハイクに次のような書き込みをしました。
なんでこの本*2、「細君」に「ほそぎみ」って振り仮名ふってるのかなあ、一応調べるか……ごそごそ、うーん、用例がみつからないなあ、さいくん、かない、おくさん、かみさん、つま、にょうぼう、「細君さん」で「かみさん」「おかみさん」ってのもあるけど、「ほそぎみ」はないよなあ、なんでかなあ、とか言っているうちにもう二時過ぎだなんて……
はてなハイク 2018/7/8 14:20:10
ワープロソフトで「ほそぎみ」から漢字変換しても「細君」とは打てず、辞書に「ほそぎみ」での立項もなく、また、同書のルビ運用の傾向から考えても、何となく単純な間違いじゃないような気がして、そこで話題になっていた谷崎潤一郎か佐藤春夫、あるいはその周辺で方言的にそのように表現していたのかな? と考えて、手元の資料で確認できるところは確認してみたのですが、やっぱり誤記という結論でいいらしい……けど気になるなあ、どういうミスなんだろう、ミスじゃないのかな? なんて考えていたら時間泥棒にあってしまった、ということを書いたのです。要旨としては「気になるけど、たぶん調べようがない(版元に問い合わせるほどのことではない)」「げっ、もう二時」ということでした。
そのとき気になったのは、「ほそぎみ」読みについて、「明治の小説で見る」「明治は『ほそぎみ』って読んでいた」という文言がインターネット上にはちょいちょいあることでした。「細君 さいくん ほそぎみ」とか「細君 読み方」で検索すると、「ほそぎみ」って昔は読んだんよという記事がちらほら出てくる。そこでみんな判で押したように「明治(の小説)」って言う。
「明治時代の小説で『ほそぎみ』と振り仮名を振っているものもありました」って、Goo知恵袋の記事にあるようなんですが、これと同じ文言が、ネット上では散見されるのです。
これはおそらく、元が一緒で、誰かそう書いた人がいて、後の人はコピペしてるんだと思います。
元の人が勘違いをしたのか、実際そういう表記を目にしたのか、あるいはいいかげんに書いたのか、その辺の事情はわかりません。けれども最初の人が出典を示さず断定的に書いたのは事実で、後の人はそれぞれに必然性や何らかの「つもり」があったにしろ、出典のない情報を自分の意見としてコピペしたという点に関しては落ち度として認めていいと思います。
ここで、この情報が誤りだといえる根拠ひとつひとつを全部挙げはしませんが、大きなポイントとして、「明治」という限定が不自然だということと、「ほそぎみ」の用例が見つからないことの二点が挙げられます。
前者は「なんで『戦前は』じゃないんだろう。あるいは『近世までは』とか」という程度の違和感です。言葉の変化と改元が結びつくのは不自然です。「明治の小説」と「大正の小説」の間で特定の語彙に変化が生じるとは考えられません。また、「小説」という限定も不自然。だから「明治の小説」で「ほそぎみ」と見たと書いている人は少なくとも近代日本語の専門家ではないと考えられます。
そして、後者について。単純に、前田勇の『江戸語の辞典』、大槻文彦の『言海』、小学館の『日本国語大辞典』、そして現行の様々な学習用古語/漢和/国語辞書、岩波の『広辞苑』等に「ほそぎみ」の立項がない。これは用例がないということ。少なくとも確例がないということを示します。
例えば「人口」という漢語があります。『日本国語大辞典』から引用します(用例は省略)。
じんーこう【人口】〔名〕①世間の人のうわさ。人の口。世人の口の端。②一国、または一定の地域に住む人の総数。
『日本国語大辞典』上で①の意味で「人口」を用いている最も古い用例は 10 世紀中頃とみられる『将門記』で、新しいものは 18 世紀中頃の歌舞伎です。
これを「ひとぐち」と読ませる場合があります。やはり『日本国語大辞典』から引用します。
ひと-ぐち【人口】〔名〕①人のうわさ。世間の言い草。評判。じんこう。*宇治拾遺(1221頃)一・一〇「めでたき歌とて、世の人ぐちにのりて申すめるは」*仮名草子・ねごと草(1662)上「かやうのことはりは、あまねくのひとくちにしりても見におゐておこなひがたし」②他人のその場だけのほめことば。甘言。発音ヒトグチ
漢語が訓読みされて流通する例です。この「ひとぐち」あるいは「ひとくち」は学習者用の小さい辞書だと載っていない場合があります。用例が少なくて、有名どころだと宇治拾遺と仮名草子くらいしか見つからないため、小さな辞書には掲出されていません。それでも、確例があるので、大きめの辞書にはこうして独立した項目として立っています。
でも「細君サイクン」→「ほそぎみ」は項目として立てられない。用例がないから。用例がないということは、当たり前ですが、用いられなかったということ。
じゃ、「細君」という文字を「ほそぎみ」と読んだらいけないのか。また、読んだケースを想定してはいけないのか。
ネットで確認すると「ほそぎみ」と読む方がスムーズだとか、「細君」って見てぱっと思い浮かぶのは「ほそぎみ」だといった証言が得られます。
これを根拠に「過去にもそう読んだ人はいたはずだ」と考えることはできます。
でも、「細君」という文字から「サイクン」よりも「ほそぎみ」をぱっと連想するのが日本語話者の「自然」あるいは「典型」だというなら、なぜその語彙は定着しなかったのか。
これは単純で、「ほそぎみ」と訓読みで発音したものを聞いても、「人の妻」という意味にたどりつけないからです。「ほそぎみ」から「妻」という意味にたどりつくためにはどうしても元の「細君サイクン」を経由させる必要があります。認知に一手間かかってしまう。
これに対して「人口ひとぐち」は、「くちのは」「もろくち」「くち」「せけんぐち」など、「くち」で「噂」を意味してきた実例がありますから、「ひとぐち」の訓だけで、意味が通じます。
「細君」を「ほそぎみ」と読んでしまっては和訓をあてる意味がないのです。和語の「ほそし」や「ほそ-」で女性や妻を意味しないわけですから。「細君」にたとえば「つま」とルビを振るなら意味があります。実際、「細君」にはかない、おくさん、かみさん、つま、にょうぼうといったルビが振られてきました。そもそも「細君」は漢語で、元をたどれば固有名なので、これを何と読むかというのは、飜訳や解釈の問題もふくむわけで、それなら何と読んでもよさそうなものですが、大前提として、和訓で読むことによって、意味が通じなければならない。言葉ですから、共有できて流通できなければいけない。
と、いうわけで、「細君」という語彙が文語化しつつある現状では、都度都度「さいくん」とルビを振った方が良さそうだという話でした。
ところで、上記のはてなハイク上での「 『細君』に時間ぬすまれた〜」という書き込みには二件の反応がありました。
ハイクがなくなってしまったので、そのコメントはもう挙げられないのですが、手元に私の返信が残っています。
一件目は「細君て言葉を知らなかったのでしょうね」という意味のもので、私は「知らない」ということを問題にしたいわけではなく(繰り返すように、文語化、雅語化している語彙ですから)、事情を知りたいだけだったので、次のようにあいまいな返信をしました。
私が今日見たのは 2015 年刊の新しい漫画で、内容から言ってミスで振ったとは考えにくいので、何か経緯があるのかな(ある時期、ある作家がそう読ませていたとか)と思って調べてみたんですけど、ちょろっと辞書を引いたくらいではわからなかったです。
はてなハイク 2018/7/8 14:20:10
知らないということはまったく問題ではないので、あいまいでも返信した方がいいと思い、書きました。
もう一件は、細君の語源と、明治のもので細君で「ほそぎみ」とルビがあるのを読んだことがあるというもの。これに対しては以下のように返答しました。
「ほそぎみ」ルビ、明治の作品で見るってネットにはちょいちょいあるんですけど、だとすると、漢語の「細君」由来で「ほそぎみ」って言って通じる時期があったということですよね。明治が専門の人ならつるっと「ほそぎみ」って口から出るのかしら。今度聞いてみます。うちにある、明治24年の辞書に「ほそぎみ」で項目が立ってないので、用例がぱぱっと見られないのがさっぱりしない原因です。用例さえ見たらさっぱりする。次に図書館に行ったらもう少し大きい辞書で調べてみます(^.^)
はてなハイク 2018/7/8 15:50:09
「明治24年の辞書」は前掲の『言海』。「もう少し大きい辞書」はいろいろありますが、このときは『日本国語大辞典』。
これは相手が確かなことを言っているという前提で返信しました。
でも「ちょっと待ってよ」って後になって思いました。
二件のコメントは、どちらも私が怒っているとかあるいはばかにしているという前提で「まあまあ」というトーンで書かれていて、正直困りました。
はてなハイクはミニブログでしたが SNS で、「共有」が前提だったので、こうしたことはそれまでにもありました。
こうしたこと、というのは、私が「あれ、この言葉って今こういう意味で使うようになっているんだ、ふーん、じゃ、変化のまっただ中ってことだから観察しようっと」というようなことを書くと、怒っていると解釈されて「言葉、乱れていますね、正しくしないと!」とご自分の正義のようなものを表明されるか、「まあまあ、言葉は乱れるものですよ、落ち着いて」となだめられるかして、「いや、そういうあれでは……」と困惑するという、そういうことです。
それで「ツイッター含めて、今後 SNS では言葉に関して書くのはやめよう」と、この細君ケースのときに決心しました*3。
言葉に関しては誰でも当事者で、それぞれに一家言ある。だから「怒っている人」を見ると黙っていられない。
でも、怒っているわけではないんです。全然。単に見たい、知りたいだけなの。*4
言葉はみんなの間にあるものなので、みんなが使えるように変わっていく。変わった結果は大抵一定の合理性が認められるものです。たとえば可能表現で上一段、下一段、カ変動詞に接続した「られる」から「ら」が抜ける現象も、登場から 100 年くらいだと思いますが、あと一世代か二世代で定着するんじゃないでしょうか。*5受け身、可能、自発、尊敬はだんだん表現が分かれる方向に行くんじゃないかなあ。これを、「いけない! 止めるなら今!」とか言っても意味はないわけで、ただできれば死なずにその変化を見ていたいなあと思うばかりであります。
*1:いけない。買い換えなければ。第四版絶賛発売中です
*3:が、その後やはり、自分の興味をおさえるのも不自然だと考えて、再開しました。言葉以外に興味のあるものもないので。
*4:オタク的な人や専門家の言葉は、そうではない人からは何かちょっと説明ないし釈明しただけで怒っているように見えるということがあるような気がします。ハイク上で映画好き同士できゃっきゃと話していたら、「今日も喧嘩してる」と言われて困惑したことがありました。何か密度とか濃度のようなものがいちじるしく違っていると、そう見えるのかなというのは気になります。
*5:でもそうなると、第二言語として学ぶ際には別の負荷が生じることになります。日本語を母語として用いる人以外にも使用されることが増えていけば、つまり日本語が外に出て行けば、もしかしたらそのことが、ら抜き表現の定着を止めるひとつの原因になるかもしれない、そうなったらおもしろい、などということも考えています。