「にんげん、落語を聞きながら他のことを考えることができるのか」を検証。
演目は柳家喬太郎「東京タワー・ラブストーリー」です。
さっさと書こう。
政治家が「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」と、またもや発言した件では、
- 記事は「麻生氏の発言は不適切との批判を浴びる可能性がある」と表現しているが、「批判を浴びる可能性」あるいは「批判」に言及するのではなく、こうした、政治家や官僚による事実誤認、偏見を含む差別的なメッセージについてはその発言のどこがどう問題なのか、都度都度記述すべきではないか。そうでなければ、差別を容認する社会であるというメッセージを二次的にとはいえ公的に出すことになりえ、それを追認することによってこの社会に暮らす人びとがさらなる差別に加担することになり、同時に、そして第一に、やはりこの社会に暮らす人びとに二重に恐怖や不安を与えることになる。
- 政治家や官僚といった、つねにその言葉遣いが問われる仕事に就いている人が「2000 年にわたって」「同じ民族」「同じ言語」「同じ一つの王朝」「世界中に日本しかない」といった間違った、あるいは愚かな言葉遣いを繰り返すこと自体について、少なくともマスコミにかかわる人びとは危機感をもって臨むべきではないか。そうでなければ、公的にリリースされる日本語そのものの信用性自体が毀損され続ける。実際、現時点で日本に住み日本語で暮らす人びとの多くも、日本語による政府発表などは話半分にしておいて、肝心な情報はまず他言語、たとえば英語で得ようとしているのではないか。
- この単一民族神話に対する、人びとのこだわりとゆるさは一体何なのだろうか。
といった基本的なことのほかに、ある素朴な疑問を抱きました。
それは、2020 年 1 月 18 日付け東京新聞に掲載された師岡カリーマ「複合民族」でも表明されていました。
それ(=日本が単一民族国家という考え方は一種の神話であり、その発言はあらゆる視点から見て不正確であり、それが政治家によって流布されることは問題だということ)よりも気になるのは、「単一民族」の何がそんなに自慢なのか、という点だ。発言が繰り返されるには、それが誇るべきことだと信じているのだろう。それが理解できない。
そうよねえ、そこ気になるよねえと思いました。
何度それが間違いだと指摘されても繰り返し発言するのは、「単一民族」だということに強いこだわりをもっているからであり、強いこだわりを有すということはそれ自体に価値を感じるからで、一体なんでそんなことに価値を感じるのだろうと考えてみましたが、さっぱりわからないのでした。
そんなとき、「CDG-HNDな遠距離国際恋愛日記」で「『純』の話」という記事を拝読して、「ああ、そういうことかあ」と腑に落ちました。
未読の方はぜひご一読いただきたいのですけれども、以前からこの著者の方は「純粋な」「ピュアな」「イノセントな」という表現に対してそれらは危険な表現である、とおっしゃっていました(と思います)。
私はそれをぼんやりと受けとめていたのですけれども、こうした、ある人がどこで生まれてどこで育ってどこで学び働いてきたか、そして生きていくかということをめぐって「純」という言葉を使うことはとても危険なことだとわかります。
「同じ民族」「同じ言語」「同じ一つの王朝」といった神話に対するこだわりは、「純」ということに対するこだわりだったわけなんですね。
たとえば「純粋な日本語」としてみると、そのねじれた感じがよくわかります。
言葉は、別々の体系同士が出会う場面でこそ必要とされるもので、どの言語にも他文化、他言語との折衝や衝突の跡があります。朝鮮語、日本語、琉球語、ベトナム語は長く「中国」との関係によってその言葉を鍛えてきた経緯があり、語彙、文字どれをとっても漢語の影響ぬきには語れません。
これを例えば「純粋な大和語」を目指して復元するといったことを目指すことに何の意味もないとまでは言いませんが、無理な話なわけですよね。「ピュアな言語」とはそれ自体語義矛盾なわけで。
このブログには「純日記」というカテゴリーがあるんですけれども、これは「情報的に何もない」といった意味です。「本」や「映画」、「音楽」、「フィギュアスケート」等と分類不可能な日々の由なしごとをここにつっこんでいます。でも「何もない」というのはもちろん単なる想定であって、実態とは違うわけなのです。なんとなく、イメージとしては「言葉の網の目が粗い」状態を「純」と自分は言っていて、今般あらためて漢和辞典をひいてみたらそんな用例はなかった……手元の辞書では……でもたぶん、大漢和を引いても、出てこないんじゃないかな。勝手な言葉遣いをしてしまいました。
あーーー。
喬太郎がうるさいっ。
都々逸入りました。
ついでですが、「差別がいけないとなると落語なんて話せなくなる」といったことを言う人がいますが、そんなことないでしょ。柳家喬太郎の「文七元結」はちょっと長いわけですが、なんで長くなるかというと、「博打にはまる父親に生活を立て直してほしくて自ら吉原に出向いた娘が身を売ってつくった五十両を、見ず知らずの、自殺しようとしている若者を救うためにそいつにやってしまう父親」の了見を納得させるのはそのまんまだとたいへんにきびしいからで、そこを個々の落語家が考え抜いてはなした結果、喬太郎のように長くなるケースもあるだろうし、「やらない」というケースもあるだろうし。
つまり、どんな人にどんな文化、どんな事情、どんな了見が流れ込んでいるか、はたからはそうそう簡単にわからないわけなんですけど、ひとりひとり複雑な体系をかたちづくっていて、それらが日々出会っているのであって、それがいいんじゃん? ほかにおもしろいことなんてないじゃん? と思うということなのです。ひとりひとりが別々のメディアとでもいいましょうか。
「あたしの母はね東京に殺されたの」
「えっ……」
「殺されたってのは、比喩」
「えっ……」
「漢字で書ける?」
「書けない」
「あんた、いい人ね」
「えっ……?」
っていうやりとりで頭がいっぱいになりました。