母が昔カルトにはまって預貯金をもってかれてしまったことがあったし、自分が大学生だったときはカルトにはまって大学からいなくなってしまう人も身近にいたので、ずっと、カルトの前で自分は無力だなあとうなだれています。
母は今でも彼女の生みの親が早世してしまったことを「なんで」と言います。「なんで私の母は死んでしまったのか」とことあるごとに言います。
今、うちの中ですりこぎが一本行方不明になっていて、それなりに質量重量のあるものが忽然と見当たらなくなり「ミステリーだね」ってことになってるんですけど、その程度のことだったらひとって「なんで」って言わない。「どこ行ったんだろう」とか「最後に見たときのことが思い出せない」とか「ああなってこうなってそうなったはずだからおそらく犯人は私なのだが経緯が謎すぎて、見つからない限りはわからないだろう」とか、そういう「いつ・どこで・どのように」の話になる。
でも、死や命に関することがらは「どのように」もへったくれもなく「なぜ」としか考えられなくなってしまう。それは当然のことだと思う。
巨大な理不尽にさらされて穴のなかにいるとき、どうしても「なぜ」と考えてしまうんだろうと思う。なぜ逝ってしまったの、なぜ私がこんな目に遭うの。
こないだ、『ヴェラ』というサスペンスドラマを見ていたら、殺人事件の被害者遺族が「どうして」と声をつまらせる場面があった。主人公の刑事、ヴェラはそれには答えず、「大事なことは、あなたのお母さんがいい人だったということ」と言って相手の手を強く握ってじっとしていた。
ヴェラは「どうして」という問のことは「大した問題じゃない」と言った。「どうして」という問に答えないのは正しいと思う。それに答はないから。死はどんな死でも理不尽で、因果関係で収まりよく説明できるものではないんだと思う。ただ、逝ってしまった、奪われてしまったという重みと痛みを残すだけで、どんなに卑小だと言われるような人物だろうと、またどんなに偉大な功績を残した人物だろうと、そこは同じで、残された側はその痛みに耐えられず「どうして」と問いかけてしまうけれど、答えはない。ただ痛みがあるだけです。その隙をついて、すっと「それは……だからですよ」と答える輩がいたら、そいつは必ず、詐欺師だ。
私たちは時折、そいつら詐欺師に家族や友人を奪われてきた。取り戻そうにも、「どうして」と問われたときに答えられなかった弱みがこっちにはある。なぜだ! なぜだ! なぜだ! と虚空に怒りと悲しみをぶつけているときにその手を離してしましたという弱みがあって、ただただ奪われている。
いくら詐欺師だろうと、明白に嘘つきだろうと、穴の空いた心に「穴が空いていますね、それを私はわかっていますよ」「その穴を癒すには方法がありますよ」と言ってくれた、救われたという恩がある。そのときに、「あいつは嘘つきだ」と誰かに言われたとして、むしろ「でもあんたは私が一番辛い時に何も言ってくれなかった」、「あんたは冷たい」と思う。多分、そう思うだろう。
母が一番辛かったとき、私は生まれていなかったのでその怒りをぶつけられるたび、理不尽だなと感じるんですけど、この際そうした前後関係は些末な問題なのです。
時を駆けることができたらな。
そしたら「でもあなたのお母さんは、明るくて働き者でみんなに好かれていたじゃない」って言って手を握りたい。
そういうことは、やはりフィクションでしかかなわない、物語でなければできないこと。母にもそんな物語との出会いがありますように。
まあ、私の知らないところであるのかもしれない。今、『どうする家康』に夢中なところを見ると。
『ヴェラ』、おすすめです!
以上です。
しかし、ちょっと待って。私これ、テレビでシーズン2を見たところなのですが、シーズン12まであるんですって? 一体、どうやって続きを見ればいいの? 教えて先生*1!
🎥 おしまい 📺