プール雨

幽霊について

下書き大放出 (2)

春ですし、たまった下書きを放出して、さっぱりしたいと思います。

2019/10/21

カントリー・ガールズが活動休止を発表しました。

ハロプロって基本的に保守的で、男はおとこいろ、女はおんないろ、日本人は米ってところがあって、基本線は部活の延長で活動して、25 歳くらいまでには引退して別の道に行くというところにあるように見えるし、そう表現していると思う。失敗や挫折だらけの青春をそのまま見せて、女の子たちは手を振って私たちの前から去って行く。

去って行く人は大抵はすがすがしい顔をしているので、そのときは「よかったなあ」と思うのですが、ふっと「これを見ている自分は何なんだ」と思わされる。

それが寂しい。

「夢に見てた自分じゃなくても、まっとうに暮らしていく、今どき」っていう歌詞そのままの姿を見て、そんで、自分はどうするのかなあと思っているうちに年をとってしまう。

子どものときからアイドル歌手とアイドル歌謡が好きで、でも仰ぎ見ていたあのころはこういう気持ちにはならなかった。原田知世薬師丸ひろ子は大学受験かなんかで休業したときはあったけど、基本的にずっとそこにいて、アイドルでありつづけているし、他のアイドルもスキャンダルがあったりなかったりしながら死なないかぎりはそこにいてくれる。

ハロプロが寂しいのは、やっぱり、「個と公」という枠組みががっちりあるからじゃないかと思う。公のグループの活動と個人の生活とで前者の方を優先できるうちはそこに属して、そうでなくなったらやめるというストーリーが見える。グループに所属しているときは言動に制限があって、あまり恋愛の話などできないし、髪型すら自由には選べない。

でも、ハローがある程度人気を維持しているのは、そこからはみ出す個人の過剰さがあるからで、ファンはそれを楽しみつつも、「ほどほどに」なんて言ったりする。

その風景もまた寂しい。

個よりも公を大事と思いたい、みたいな議論が世の中ではずっと続いていて、でもその「公」ってどういうものかっていうのは漠然と伏せてきた部分で、伏せているうちにその「公」が今や「お上」みたいなものに堕してしまった気がする。

実際問題、大抵の人は身一つで社会に出て、むき出しの個としていちからそこで学ぶわけだけど、そのときには、個人の側があんまりふらふらしてちゃすぐ倒れちゃうから、個人として、自分の足場をきちっと持ち続けるよう自分自身を調整していくってことと、個人が飛び込む公共の側もオープンでクリーンな場として公正に機能しているってことの両方が必要で、そのどっちがより大事ってことはないと思う。また、公共性を維持していくにあたって、私たちはひとりひとりが客体じゃなく、主体であるわけだし、「国って私たちのことでしょ」っていう構えがなければ、人生はぐずぐずのぐだぐだになっていってしまう。

ハロプロは、「自分なりの考えをもった人はやめる」って印象がある。

でも理想をいえば、自分なりの考えや理想をもった個々人が集まって、ストイックに、創造的に、そして享楽的に音楽をつくっていけたらおもしろいわけで、その結果がでこぼこした

というところで下書きは止まっています。カントリー・ガールズ活動休止の報を聞いてかっとしてここまでは一気に書いたんだけども、私の言う「公共」と「個と公」っていう対立でとらえる人の言う「公」って、別物で、そこを分けずに書いているので、書けなくなってしまいました。

2019/11/13

YouTubeTwitter への書き込みを読んでいると、「気軽に書ける」ことは必ずしもよいことばかりではないのではないかと思います。

これははてなハイクで遊んでいたときにも感じていたことです。

はてなハイクはキーワード毎に書き込みが溜まっていくシステムでしたが、キーワードが思いつかない、漠然とした書き込みをしたい場合は、ID頁というものがあってそこに書き込めたり、はてなスターの横にコメント欄(スタコメ)があってそこにも書き込めるようになっていて、書き込みのオープンさに階梯がありました。ちょっと表だって書きにくい愚痴などは、ID頁やスタコメを利用しており、書き込みの容易さにつながっていました。

そして、トラブルはそこで起こることが多かったです。ID頁を利用したエアリプでの応酬はときに非常にきまずかった。

また、漠然と何か書きたいと思っているときに、さっと書けるシステムがある、といったとき、人はわりと「悪口」に走りがちというか、悪口の方が書きやすいのだと思います。

言葉の縁に立って、自分がこれから何を語り始めるかわからないところで語り始めるとき、そこに何らかのストイックさや創造性や楽しもうという気持ちがあれば、詩へとたどり着けるかもしれませんが、そうでなければ、単に型にはまった語り方を繰り返してしまうことにはまりがちだからです。

型にはまった語り方には速度があるので、喧嘩には勝てるかもしれませんが、それだけのことです。

誰かを脅したりバカにしたりするのがせいぜいのところで、それでも、外に気が向いているだけましで、なかには自己嫌悪に陥ってしまう人もいると思います。

なにか、曰く言いがたい気持ちや身体感覚があって、それを外に出したいと思ったらそれ相応のストイックさが必要で、反射的に出てくる言葉を一旦ひっこめて

「語りのスピードを下げる仕組み」についてずっと考えているのですが、結局、書き手のストイックさというところに落ち着いてしまいそうで、下書きはここで止まってしまいました。はてなハイクの、書き込みのオープンさに階梯を設定したシステムは、複雑な言表への誘いかけにもなっていて、豊かさにつながることもありました。だからそこで喧嘩や罵り合いがあったとしても、システムのせいってわけではなくて、やっぱりユーザーの問題だし、喧嘩があったからって悪いとばかりも言えないし、とか考えてここでストップしてしまったのです。

2019/10/25

このまま行ったら大変なことになるよ、と子どものころから聞かされてきたのですが、もう「大変なこと」は起こってしまって、その中にいるのだなと思います。

毎日こわいです。

愉快に暮らすとか、正気を保つとか、そういった言葉ではもう自分を律していられないと感じます。

ここをこうしないとこういうことが起こる、これを放置しているとこういうことが起こるといった未来を予測する言葉が失効したのは、もうすでにそれが起こっているからで、「いや、それでも何とかしよう、それ以外にないではないか」という人と「問題ない」と宣言することで、その真意がわかる者同士での連帯を強める人との対立があって、前者の

 なんでこういうところで止めるかな、という場所で止まっていますが、キーボードで書き込む前にもうすこし、紙とペンで書いとかないとまとまりそうにないテーマです。『予測がつくる社会』の感想文を書くつもりでした。

予測がつくる社会: 「科学の言葉」の使われ方

予測がつくる社会: 「科学の言葉」の使われ方

  • 発売日: 2019/02/25
  • メディア: 単行本
 
2020/02/17 

「#あなたのフェミニズムはどこから」というタグが Twitter 上にあって、時々眺めています。

 私の場合は、ホモソーシャルばりばりな地域、家庭で育って、「生きていける場所がない」と感じていたことがスタートのような気がします。女性嫌悪、弱者嫌悪、同性愛嫌悪の価値観のなかで、まわりの女性達の多くは自己嫌悪と同属嫌悪を身にまとって、いがみ合いながら共同体を維持していました。彼女たちは私に「がんばっても男にはかなわないのだから、がんばるな」「男に気を遣え」「男が『鴉が白い』と言ったら女はそうだと言わなければならない」 などと繰り返しました。結婚は苦しみであることを他ならぬ彼女たちが体現していたので、私は結婚するつもりもなかったし、できないと思っていたのですが、さりとて、企業でばりばりと働くところもイメージできないのでした。とにかく、自分が生きていける場所がどう考えてもありそうになかった。その中で、別の価値観を示してくれる大人たちは光り輝いて見えました。ゆっくりじっくり考えること、やれることを探すこと、探し続けること、見つかったらそれを大事にすること、自分の弱さを認めること、正直でいること、他人を尊重すること、他人の弱さを大事にすることなど。

 弱さについて考え続けること、弱さを隠さないこと。それが私のフェミニズムです。

「#KuToo 職場でのヒール・パンプスの強制をなくしたい!」の運動に対して、あれほど苛烈なバックラッシュがあるとは思いもしませんでした。石川優美は「ヒール・パンプスを禁止にしてほしい」と言ったわけではなく、職場における「強制をなくしたい」と言ったわけで、だれの権利も侵害していません。

ただ、5 cm 以上のヒールで、甲の部分が覆われていない靴では体を壊してしまう場合があるので、その強制はやめてほしいと言っているだけです。

ハイヒールが好きな人はハイヒールを、ローヒールが好きな人はローヒールを。そんなことまで規則でとやかく言うのは変なのでは? という話があれほど通じないとはまさか思いませんでした。

ハイヒールでは足を痛めてしまう、そして腰も痛めてしまう。そういうことがある、ということ、そしてそのせいで働くことができないことある。そういう話にこれほど反発があるとは。

こうしたことはよくあります。

選択的夫婦別姓の法制化要望に対する反応にも驚きました。別姓の「選択肢」を増やしてほしいという要望であって、同姓の制度をなくせとか、戸籍の制度をなくせとか、そんなことは言っていないわけです。

すでに働いて一本立ちしている二人が結婚するにあたって、姓をどうするかということにかんして、それはもう個々で様々な事情(キャリアの問題に加えて、二人ともきょうだいがいないとか、すでにきょうだいが結婚して姓を変えているとか)があるわけで、そうした様々な事情に即した新たな制度がひとつあっても、だれも困らないはずです。

でも、何か新しい問題や主張が出てきたとき、その問題の枠組みを読み、理解する前に、自分の持っている古い思考の枠組みで解釈してしまい、そのせいで議論がしっちゃかめっちゃかになるということは、もう、毎日毎日あちらこちらで起こっています。

 文章のゴールが見つからず、そのままになっていました。自分自身を苦しめる構造の中にいながら、その構造を変えることには嫌悪感を示す女性達との暮らしが私をフェミニズムに導きました。と、それだけの単純な話だったのですが、とにかく #KuToo や選択的夫婦別姓法制化への逆風にはびっくりしています。もしかしたら単に「めんどくさがり」で反対しているんじゃないかとすら思っています。

2020/02/19

私は請負業者で、家で作業するスタイルなので、仕事全体の流れを把握できないことが多いです。製品がちゃんと動くかチェックする仕事で、工程の最初の方でかかわった場合は、仕上がりを知らされないまま終わり、後の方でかかわった場合はスタート地点が想像できません。

その場その場で精一杯やって、「あとはお任せします」というタイプの仕事です。

それで、ここ数年、「あれ、工程の重要な箇所に『素人』がかかわっているんじゃない?」とか、「こんな段階まで専門家のチェックが入っていないのかなこの仕事?」といったことが増えました。

「素人」とカギ括弧をつけたのは理由があります。いわゆる素人ではなく、「専門的な知識があるはずの人が素人的な発想、認識で仕事を進めている」と思われる場合を指しているからです。

  • 事実確認をしようとしない
  • 専門的な知見や知識を参照しようとしない
  • 専門家の意見を「面倒なもの」として扱う
  • 間違いやミスを指摘されること自体をいやがり、自身を通さないで解決されることすら望む
  • 解決しようとしない

こういったことが重なった上に増税もあって、仕事上でちょっと参ってしまい、特定の仕事から外してもらうよう、担当の方に依頼したのが昨年末です。

なんというか、スケジュール通りに「こなす」ことが最優先されていて、スケジュールやマニュアルを超えた動きが発生するとフリーズしてしまう人が散見されるのですが、でも、問題点を解決せずにリリースしてしまった場合の不利益に比べれば、スケジュールが多少ずれこむくらいのことは何でもないと思うのですが。 

 考えがまとまりませんでした。「素人として物事にかかわることの弊害」について考えているのですが、うまく行っていません。だれでも、ある程度の年齢をこえていれば、意識する、しないにかかわらず、なんらかの専門家になっていると思います。その「専門家である自分」という構えをもって、「別の専門知を持っている他者」の言葉に耳を傾けると、色々とスムーズに運ぶんじゃないかなあと日頃考えています。

 

2020 年 4 月 12 日現在、考えていることは以上です。