蟄居ライフ再びか、ということで考えました。
前回の蟄居ライフで悔い改めモードだったため、みんな「悔い改め疲れ」なのではないかと、友だちと話し合ったことがあったのですが、実際そんな感じなのではないかとこの三週間の人出を見ると思ってしまう。年の前半に小松左京を読み過ぎたといいますか、ディストピア擦れしてしまったというか。
— 🌍 雨子 🌎 (@nuruuri) 2020年12月14日
これはちょっと前、感染状況が今ほどひどくなかったとき、久しぶりに会った友だちに言われたことです。今、みんな「悔い改め疲れ」が出ているのではないかと。そのときは、まったくそうだなあ、この状況から「もう一回締め直す」って大変だなあと思っていたのです。
それが今や「あの引き締め方では不十分だった」ということが明らかになり、そもそも「引き締め方」を見失っているようにも感じられ、いくら公的にロックダウンしないとしても、自主的にそのくらいした方がいいだろうという状況を前にして、構えが取れずにいます。
ああ、かえすがえすも、あの時期、内省的に過ごしすぎた。反省しすぎた。もう反省のネタがない。
— 🌍 雨子 🌎 (@nuruuri) 2020年12月14日
前回は単に本人比でおとなしく過ごしていて、ミステリのほかは戦後ものなどを主に読んでいました。戦後ものは自分にはハードで、あまり読んでこなかったので、いい機会だからと読みながらじっとしていました。それは「悔い改める」という言葉で言い表してもよさそうだったし、実際その通路を今は見失っているので、「どうしようかなあ」と Twitter に吐露しました。
でも、よくよく考えてみると、自分は基本的に常に悔い改めています。読んだり書いたりするということには、反省するとか、考え直すとか、そういったことが含まれるので、私はいつもいつも過去を振り返っていることになります。
刻一刻、振り返った先は長くなっていきますから、その「ネタ」がなくなるということはないわけで、別に蟄居中であろうとなかろうと、私はこれからも振り返り、反省し、後悔し、くよくよし、認め、顧みることを繰り返していきます。
だから私の辞書に「悔い改め疲れ」はない。
前言撤回します。
さらに考えてみるに、今、初めて私が経験しているのは、「未来」や「意志」、そして「希望」などを信じられなくなるということです。
この数年できっちりすっきりわかったのは、「未来志向」が、過去に背を向けて、顧みることをやめてしまったときに出てくる言葉だということです。
一見、明るくて希望にあふれた言葉に見えますが、未来への意志は事実に目を背けることとセットだったのだと私は思います。
美しく、明るい未来へと指さされたその先にあったのは、捏造された過去で、一度その嘘の上で暮らしてしまうと降りるのは難しくなります。
私は嘘やでたらめは好きではないので、毎日着実に、振り返り、反省し、事実に迫りたいと考えています。正気でいたいです。大事なのは過去と、その先端にいる自分自身です。そんな構えで日々を積み重ねていきたいです。
おわり