とかなんとか言って、もうすっかり終わった気がしてしまっているが、センター試験は来週なのだった。
私はそわそわしていた。
元子もわりとそわそわしていた。
私たちはあまり友だちが多い方ではなかったので、そのそわそわを止める人がいなかった。
思い返せば「12 月」の響きを聞いた頃からこのそわそわは始まっていた。チェーンを巻いた除雪車がシャンシャンシャン……という音を立てて外を行くの聞きながら、うまく勉強に集中できない日が続いていた。
そんなわけで残念ながら、試験前最後の補習はあまりぴりっとしない感じだった。ぼーっとしてしまった。どうやら先生方もそわそわしているらしかった。みんなで気を落ち着けるために紅茶をじっくり飲んだ。加藤先生がコツを話しながら淹れてくれた紅茶はおいしかった。
「結局は思い切りよ」
と彼女は言った。
それから、「とにかく落ち着いて」「いつもと違うことをしない」「まず睡眠時間確保」「現場で参考書なんか見ると焦るから、自分のノートを見るとよい」など、矢継ぎ早の助言に、私たちは更に更にぼうっとなっていった。
そして、ついつい卒業後のことなど考えてしまうのだった。
紅茶で酔っ払っているという説もあった。
いけない! これはよく漫画なんかで見る、失敗する受験生の描写だということで、私たちは気を引き締め合った。
元子も私も予備校や塾に行けないので、さんざん学校の先生にお世話になったのだ。放課後、補習をしてもらったり、職員室の隅に席をつくってもらってそこで勉強したり、夏休みや冬休みには長期の補講もしてもらった。
よく考えると先生方は完全にボランティアです。これでうっかりミスとかとても……
というようなことに話題が及ぶと、元子と私は血の気が引くのだった。それで、
「もし、同じ大学に合格できたら、一緒に暮らそうね」
と約束し合って気を落ち着けようとした。
元子と私の受ける大学はどこも学生寮に相当する施設がないことがわかっていた。もし合格できても、その後の生活が不安だった。「一緒に暮らそう」には友だちとずっといたいという気持ちだけでなく、かなり実際的な希望がこめられていた。
来週。あきらめないでがんばろう。
その頃、診療所が閉鎖になるとかならないとかで、町は落ち着きがなかった。先生は春にはいなくなることが決まっていた。私は時々、学校の帰りに診療所を道路の反対側から見ていた。診療所は暗闇の中に頼りなく、ぼうっと光っていた。まわりには何もなかった。
小学校二年生くらいまで、診療所の隣には民俗史料館という看板のついた木造の建物があった。うすい桃色の木造の建物で、診療所と同じ敷地に建っていて、診療所、史料館、そして踏切の並びは私のお気に入りだった。
踏切の手前まで行ってみることは大冒険だった。
史料館の中に人がいるところは記憶にない。珍しいものや大事な史料があるという話だったが、そこを管理している人がどれくらいいるのかも、私にはわからなかった。その史料館と診療所の間に今はない、渡り廊下があって、そこに小さいときよく隠れていた。
史料館から史料が運び出され、隣町の図書館に移され、取り壊されることになったときは、私は小さいなりに衝撃を受けていた。
それは町でいちばんすてきな建物で、きれいで、かわいくて、隠れるところがいっぱいあって、そして大事な、唯一の居場所だった。
居場所がないのが問題だった。
毎日家と学校の往復で、家と学校の間はだだっぴろい道路に申し訳程度に白線を引いただけの通学路があって、その白線の内側と学校と家以外、どこにも行っちゃいけないのだった。家は朝から怒号が飛び交い、私は何をしても、何をしなくても叱られて気が休まらなかった。それに比べれば学校には秩序があったので、よっぽど気が休まったが、時折、男子から「おまえ、常識がない!」などとどなられることがあり、そういうときはルールがわからず気が塞いだ。
家と学校の間は大きく空間が広がっているのに、密室で、そのどこにも居場所がなく、私は移動しつづけ隠れつづけなければならなかった。
たまに、青空から鉄骨が落ちてきて、自分がそれに当たって死ぬところを想像してこわくなって駆けたりうずくまったりしていた。
大人になってから思い出せばきっと笑えるようなことも、今はまだこわい。何もない通学路がこわかった。
それで、学校帰りにひょいっと脇道にそれて史料館や診療所の古い建物を見ていた。最初は見るだけだったが、だんだん建物に近づいていって、そのうちそこで休むようになった。
だれの目もない
そう思うとほっとして、うんと絵を描いたり本を読んだりできた。
そのうち、診療所のおじいちゃん先生と友だちになって、待合室でお水を飲んだり、ウィルソンと遊ぶようになった。おじいちゃん先生は待合室でウィルソンと話している私を放っておいてくれた。ウィルソンを両手でもっておでこにくっつけて「助けて」と願った日々。
小学校の高学年になると、診療所への配達は私の担当になり、大人の言葉遣いで「ご注文の品をお持ちしました」などとおじいちゃん先生に言うのが楽しかった。
でもおじいちゃん先生がいなくなり、ウィルソンがいなくなり、隠れる場所がなくなったんだった。
だから、先生が診療所に来たときはまたほっとしたけど、この先生もそのうちいなくなっちゃうんだなと構えてた。
先生はなかなかいなくならなくて、私に包帯を巻いてくれたり、のど飴をくれたり、うちのお父さんに嫌われたりした。
でもやっぱり、先生もいなくなっちゃうんだ。そして今度は、それだけじゃないと思うと、あの診療所でおじいちゃん先生はどんな気持ちだったんだろう、知りたい、という気持ちがわきおこった。先生。先生は毎日、どんな気持ちだったんだろう。おじさんたちに悪口言われながら 5 年以上働いてくれた。お母さん。お母さん、そのことをどう思ってた? 私にうんざりしているお母さん。たまには「うんざり」以外の気持ちのこともあったんだろうか。
先生、私はいろんなことがわからないです。
ただ、おじいちゃん先生とは違う意味で、先生とも違う意味で、今自分はここを出ていこうとしているんだ、何も残さないで、ということを毎日受けとめています。
おわり