プール雨

幽霊について

診療所のウィルソン 4

 雪は嫌いじゃない。まわりの音が消えて静かになるし、雪かきや吹雪の中を歩くのは集中していないとできないので、何も考えずに済む。黙々とやれることか、集中してないとできないことを一人でするのが好きだ。

 「高校生!」

 と声をかけられて私はむっとした。私の名前は高校生じゃない。車から甲高い声をかけてきたのは先生だった。

 「乗って! 送ってあげるから」

 と先生は言った。私はますますむかむかして、

 「いいです」

 と言って歩き出した。

 「そっちは家じゃないよ〜どこ行くの〜」

 という先生の声を背中に、私はどんどん歩き出した。

 どこに行くつもりもなかったし、行く場所もなかった。図書館は閉まっているし、第一、見渡す限りの雪景色で、辛うじて所々車道が照らされているだけなのだ。あと二十分ほど脚を動かし続けていれば、叔母の住む町には着く。だからといって叔母の家に行けるわけでもなかった。

 ただウィルソンに会いたかった。

 ウィルソンに会いたい。なんだって打ち明けたのに、なんにも言ってくれなかったウィルソン。

 ウィルソンがいないから、私には打ち明ける相手がいない。相手がいないから、私の言葉はずっと、喉の奥で空転してる。

 もう何を言いたいのかも、何を聞きたかったのかもわからなくなってしまった。

 先生の車はしばらく私の後ろをゆっくりとついてきて、そして横に並び、すこしスピードを上げて前に止まった。

 私が立ち止まっていると、先生は助手席のドアを開けて待っていた。私は何も考えずに助手席に座った。

 

 診療所は、すっかりこの町に慣れた先生の手によりきれいに雪囲いされ、室内はあたたまっていた。先生はストーブの上のやかんを見てから、

 「今、すごくおいしいコーヒーを淹れてあげるから」

 と言ってネスカフェの大瓶を私に見せた。私は急にどっと疲れて、椅子に座り込んだ。座りながら、この椅子は好きな椅子だと思い出していた。診療室に置くにはすこし不便な、ふつうの木の椅子。でも座り心地がよくて、やわらかいとすら感じる。クッションの位置を直しながら、自分の手が震えているのを見た。指先がじんじんしていた。靴の中が冷たくて不快だった。

 先生は棚からカップを二つ取り出し、長い柄のスプーンで一杯ずつコーヒーの粉を入れて、そこに少量のお湯を注ぐと茶筅で立て始めた。私は立ち上がり、先生が起用に茶筅を縦に動かしてコーヒーを泡立てていくのを見ていた。

 「私もやりたい!」

 そう言うと、先生は「いいよ」と言ってもう一方のカップ茶筅を私によこした。私は粉とお湯の上に茶筅を立てて、最初はのの字を書く様に、次に先生の真似をして縦に動かした。茶筅の後をついてコーヒー粉が動き、次第に泡立ってきた。

 「うまいね、いつもやってるの?」

 「初めてです!」

 「筋がいいね〜」

 先生がそこにやかんのお湯をそそぐと、テレビで見るようなコーヒーができた。私は立ったまま一口飲んで、「なんとなくおいしい気がします」と言った。先生は「なんとなくじゃないよ、おいしいでしょ」と笑った。

 「今度家出するときは、もっとちゃんと準備しなきゃ」

 インスタントコーヒーをおいしく淹れるコツをひとしきり話した後、先生は言い出した。

 「そんなさ、学校指定の薄いコートとマフラーだけで、こんな吹雪の中高校生が泣きながら歩いてたら通報されるでしょ、ふつう」

 私は黙って聞いていた。

 「それに学校から帰ってきてそのままで、身の回りのものも、まとまったお金も、行く場所もないんでしょ」

 しぶしぶ頷いた。

 「ちゃんと計画しなきゃ。行く場所が必要だし、困ったときにどこにどう頼るかも勉強しておかないと」

 二度三度、うなずきながら、そういえば先生ってどこから来たのかなと思って聞いてみた。

 「僕? どこからって……この前にいたのは仙台だよ」

 「せんだい」

 「そう」

 「都会ですね」

 「うーん、まあねえ。都会に行きたいの?」

 私は首を振った。

 「どこか、行きたいところとか、やりたいこととか、あるの?」

 どうだろう、と思うとまた喉の奥で何かがからからと回って、泣きたい気持ちになってきた。

 「ボール」

 自分の声が幕の向こうに鳴っているようだった。

 「ボール?」

 「ボール、ありませんでしたか、あそこに」

 受付のカウンターを指さした自分の指にも紗がかかっているようだった。

 「あそこに? いつ?」

 「先生が、来る前」

 言ってしまうと、幕がばさっと落ちたような気がした。私は早口になって、

 「先生が来る前、前のおじいちゃん先生のとき、あそこに古い野球のボールがあったんです、いつも」

 と声に出した。だんだん自分の声が大きくなっていくのがわかったけど、止められなかった。

 「あそこに、ずっとボールがあったんです。あれ、私のボールだった」

 言ってから、言ってもしょうのないことを言ってしまったと思った。先生の来る前のことを先生に聞いてもどうしようもないのに、先生にぶつけてしまった。

 謝らなきゃ。

 そう思って口を開きかけたとき、先生が

 「たぶん、そういうものは前の先生がいっしょに持って行っちゃったんじゃないかな」

 と言って上を指さした。その指につられて上を見た。診療所の、変な模様の入った天井の向こうの、雪を降らせている空のずっと向こうを想像してみた。

 まっくろで、ひろいところ。

 なんにもない。

 時間もない。

 「先生」

 ふと、先生にずっと聞きたかったことを聞いてみようと思った。

 「うん?」

 「先生も、もうすぐここからいなくなっちゃうって本当?」

 今度の自分の声は、当たり前の声だと思った。

 「そうだよ」

 先生も当たり前の声を出した。さっきまで先生は、困っていたんだなとこのとき気付いた。

 「そうなんだ」

 私は胸のつかえが取れるってこういうことかなと思ってた。そのとき先生は持っていたカップを何かの合図のように机に置いた。

 「君もそうでしょ」

 ここからいなくなるという言葉が急に自分に返ってきて、私はしばらく、そのことを考えていた。

 そうだ、毎日、「私がいなかったらこの家は完璧だったんだろうな」と思うような家で、何をしてもしなくても叱られる家で、でも結局自分は来年の春にはここにいない、そう思うと、自分の前にまっくらなひろがりがまた見えた。

 「君もここを、出ていくんでしょ」

 文節を区切るようにゆっくりとそういう先生の言葉を聞いて、私は二度うなずいてから、声を出した。

 「はい」

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