「よくねた」の四文字が起きて即目の前に浮かぶほどよく寝ましたので、これは話題の『関心領域』を見るしかないなと覚悟を決めました。
ついでに、お高いおやきのお店に行って奮発してやろうとのっしのっし歩いて行ったら、おやきのお店はお休みでした。対決姿勢がいけなかったのかもしれません。それですごすごと駅そばを食べました。駅そばはつねに期待したよりおいしい。駅そば大好き。
うすらぼんやりとおそばを食べていたら、電車の遅延的なものにひっかかって映画館入場がぎりぎりになりました。ぎりぎりに入ると、映画館の人がすごく優しくて……どうしてなんだろう。ひとりの人間として認識されるから?
それはいいとして。こわいと噂の『関心領域』、つるっと見てしまいました。
特に眠くなることもなく、わからないこともなく、つるっと最初から最後まで同じテンションで見てしまいました。そうだよなあ、と。
こわがりのはずの私、どうしたのだろう?
最初から、「この視点、誰の視点なんだろう?」「今自分には何が見えていて、何が見えていないんだろう?」と考えていて、それが最後までわからなかった。今もよくわからない。
舞台はおそらく終戦までそう遠くないアウシュビッツ収容所と、その隣家。収容所の隣には司令官一家が住んでいて、そこに理想的な「東方生存圏*1」を築いているのです。壁ひとつ隔てた収容所からは銃声、怒声、悲鳴がないまぜになったような音が始終飛び込んできます。比較的静かなときでも、聴診器を胸に当てたときのような音がずっと鳴っており、とても落ち着いて暮らせそうな環境ではありません。しかし司令官の家は完璧にコントロールされた快適さに満ちており、庭には花が咲き乱れ、蜜蜂が舞い、温室とプールまである。この環境を妻のヘートヴィヒは「東方生存圏」の理想を実現したもので、ずっと夢見ていたと言います。そして、この理想の生活をやっと作り上げたのだから、夫の転属にはついていかない、この完璧な環境で、健康で美しい子ども達を完璧に育て上げると主張します。このときのやりとりの気持ち悪さがすごいです。夫ルドルフは、転属にあたって当然家族とともに引っ越し、そこでまた新たな生活を築くものと思っていたのですが、妻ヘートヴィヒの剣幕に押しやられ、じゃあ、ちょっと上に掛け合ってみる……とこたえます。するとヘートヴィヒはもう、夫の単身赴任が決まったかのように、離ればなれになるのは寂しいわ、時々は電話してね? などと言って泣きさえするのです。彼女はこうして自身の夢の家を死守します。しかし、彼女の母はその完璧な家から黙っていなくなってしまうのでした。
理想をこの世に実現させるため、搾取する側とされる側にわけて人種化し、簒奪を、虐殺を正当化していく、虐殺を可能にする機械の部品として生きる者にはもう、他者が見えない。その姿が淡々と映し出されていました。
この日はちょうど、改正出入国管理法が施行された日でした。日本という国がまた曲がり角をひとつ曲がった日です。
すでに入管で人が亡くなっていて、その酷い実態が明らかになっているなかで、入管にさらなる裁量権を与える非人道的な法律が施行されてしまいました。
このところ国会では、だれの人権をどう制限するかという議論、つまり誰なら排除してよいかという話を延々しています。
入管であんなことがあったのに、日本の警察のレイシャルプロファイリングが世界的に問題になっているのに、国連から何度も勧告されているのに、そして、ガザがあんなことになっているというのに、こんなときに、よくもこんなことができますね。
『関心領域』がこわくなかったというわけではなく、今、眼前の現実が『関心領域』と同じ文脈でこわいです。
だから自分にとってはたとえ『関心領域』は見なくとも、この現実がまさにそうだ、ということになってしまいます。
「見えなさ」について結局どう語ればいいのか、というのがいまだにわかりません。映画の終盤、ルドルフ・へスはパーティーに集まる人びとを見下ろしながら、ここにいる全員を殺すにはどうしたらいいだろう、ガス? いや、これほど天井が高いと難しいだろう……と考えています。そしてそのことを妻に電話で話すのですが、妻はさして重要なこと、あるいは異様なこととはとらえません。ルドルフは一度離れたアウシュビッツに戻れることになり、喜んでいます。ハンガリー系ユダヤ人をガス死させる作戦を統率できることに、やりがいを感じているようです。
その作戦の名前は「へス計画」。のちにジェノサイドと呼ばれることになる作戦に自分の名前がついていることに喜びを覚えているようです。
へス夫妻はナチスが犯した大罪、ジェノサイドという機械の重要な部品です。へス一家はファシズムを支える歯車のひとつ、それもとても出来のいい歯車、部品です。
『関心領域』の画面に最初に映っているのは、加害者家族です。かれらは日々、ユダヤ人が殺されている施設の隣に住みながら、被害者の姿を視野に入れようとしません。目にも耳にも入ってはいるのですが、相手を同じ人間だと思っていないので、目には入っていても、見えていない状態です。
どうしたら、そんな事態にまで至ってしまうのでしょうか。
ヘートヴィヒの母親がその家を逃げ出したのは突然でした。娘に何も言わず、置き手紙だけを残して、ただ逃げ出したのです。彼女の耳には収容所から銃声が、不気味な音が、悲鳴が届いていました。うたた寝からふと目を覚ましたとき、壁ひとつ隔てた向こう側で自分の娘の夫が指揮している「作戦」という名の虐殺を、大罪を突然意識してしまったのでしょうか。
あの後、ヘートヴィヒは母親と和解したでしょうか。
難しいでしょう。
とても難しいと思う。
入管の職員の方々は、職務以外の社会生活をどう送っているのでしょうか。入管だけじゃない。外国人と見たら犯罪者と思え、が合い言葉だという警察の方々は、職務以外の場面で、どう社会生活を送っておられるのでしょうか。冤罪で人を死なせてしまっている公安と検察の方々は。
移民、難民の出入国関係法案を審議中、維新の政治家が泣き出してしまったことがありました。支援者のことが信じられない、なぜ、一度会っただけの外国人を支援できるのか、おかしいではないかと言って。
その見えなさ。
ある、自民党の議員が自分たちに対する抗議のデモを高いところから見下ろして「あの人たちはどこから来るのかねえ」と不思議そうに言っていました。一体どんな組織にあんな大勢動員されているのだ? と思ったのでしょう。いや、「どこから」って、家や職場からばらばらに来てるんですよ。そういう、内側からの抵抗の内実が、もう全然見えなくなっていて、想像もできない人たちと相対したとして、私は何か言えるでしょうか。へスの母親のように、黙って逃げ出してしまうのでしょうか。
ファシズムが行き渡った社会では、成員は加害者か被害者のどちらかになり、支援者は夜を駆けるのに精一杯で、昼を生きることはできないということでしょうか。
見えない者は血縁者や隣人とかわす言葉さえ失うのでしょうか。
まとまらないので、突然ですが終わります。
🎦 ちぇりおです〜 🎥