今年の手帳をしまい込む前に、ぱらぱらと読み返してみました。そのなかから「ああ、そんなことあったなあ、そういえば」と思うようなことをいくつかピックアックして、なんとなく「2020 年のまとめ」にかえようと思います。
1月18日(土)
私の父はエジプト人だが、DNA検査により、比較的最近の先祖の中にも今の南西ロシアやジョージアなどのコーカサス地方、キプロス、トルコ、イラン、中央アジア、さらにサハラ以南アフリカの出身者がいることがわかった。こうした私を形作る人種のごった煮を、不純だとは思わない。むしろ体の中に世界史が息づいているのを感じて、謙虚な気持ちになる。
では、「純粋な」日本人である母方の先祖は? これも検査で、モンゴルや東南アジア、朝鮮半島などが、鎖国時代にも混ざったらしい。こちら側でも、世界史が血管の端々まで脈打っている
(師岡カリーマ「複合民族」 東京新聞より)
2月6日(木)
外から見てるからだよ
(プーケットのホテルで、日本人が “Mother Fucker” と書かれた T シャツを着ていて気まずかったと言う瀧に対して卓球が言った言葉。『電気グルーヴのメロン牧場 花嫁は死神 6』より)
2月10日(月)
ぶれぶれなるままに
(東山彰良『越境』より)
2月17日(月)
(女が)男の真似するってことは支配者になる、権力者になる、抑圧者になる、差別者になるってことだから。ほかに被抑圧者や被差別者が生まれるだけなのよ。
紳士服着て働くなんてイヤだって女は言ってるの。でもほかに着る服がなかったのよ。
(上野千鶴子・田房永子『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えて下さい!』より上野千鶴子の発言)
3月12日(木) 「みんなやきそばパンをあきらめられない」(出典不明)
3月28日(土) ずっとちっきょしてる
4月1日(水) 「一住所にマスク二枚郵送」に恐怖をおぼえる
4月4日(土)
(おもしろそうだと思ったのにすっかり忘れていた本)
5月7日(木)
近代藝術における新しさは、藝術論=美学史的な主張としての新しさです。「新しさ」の思想史において決定的な役割を果たしたと目されるのがボードレールです。かれは、新しいものかつ永遠のものと結びついて美が生まれる、と考えました。(中略)産業革命の進行する自らの時代の生活形態のなかに、刻々と生まれては消えてゆく新しいものを見ていました。それはまた、無名の群衆の都市生活でもありました。その美学は、十九世紀末から二〇世紀初頭に勃興するアヴァンギャルド運動へと発展してゆきます。この運動が過激になるとともに、観賞者たちの意識との乖離が始まり、古典と現代作品の逆転現象が生まれてきたわけです。
(佐々木健一『美学への招待』より)
5月25日(月) コロンボは血圧がひくい
5月26日(火)
博物学で重要なものは、観察者の目である。自分で見たものを記録し、その謎を説明する姿勢である。ファーブルは『昆虫記』第二巻第一章で、「観察したことの正確な叙述なのであって、それ以上でもそれ以下でもない」と書いた。探偵が使った手法の原理は、当時、科学の典型と考えられるにいたった博物学を、人間現象に適用したものであった。
(藤竹暁『都市は他人の秘密を消費する』より)
6月20日(土)
生活という個人の領域に不用意に公権力が介入してくることを「おかしい」と思うのは、民主主義の基本です。「おかしい」と正しく言葉にするためにも、戦時下の「生活」や「日常」の歴史を学ぶ必要があると思います。
7月7日(火)
戦争のときには、数百万の日本人が、兵士や「在留邦人」として中国大陸にわたったが、その大部分は、中国語を学ぼうとはしなかった。かれら、とくに兵士たちが中国語だと思い込んで用いた奇妙な言葉を、相手の中国人は日本語だと思っていた。これを俗に「兵隊支那語」とよぶ。
沿線官話(南満州鉄道の沿線に住む日本人達の奇妙な言葉をこうよんだ)
中国語は外国語である。(1954 年 10 月、「中国語学研究会 第五回全国大会」にてなされた宣言)
(安藤彦太郎『中国語と日本近代』より)
7月9日(木) 小松左京にあきる。
7月30日(木)
人びとが地上で戦いをくりひろげているとき、天上では神が同じように血を流しているとする神軍・神戦思想は神国思想のほとんど中核部分を占めていた。そして蒙古襲来から一世紀以上を経たこの時期にも神軍・神戦思想がなお健在であったことを、『明徳記』は物語っている。
皇位簒奪ということがおこりうるとすれば、それはたんに天皇にとってかわるというだけではことたりず、同時に神国的世界秩序に筆を入れなおすことが不可欠となる。けれども血と神話によって巧妙かつ壮大に練り上げられた天皇制のコスモロジーを突き崩し、再構築することがいかにむずかしく、また効率の悪い作業であることか。その効率の悪さが過去のあらゆる権力にその試みを断念させてきたのだといっても過言ではない。
(桜井英治『室町人の精神』より)
8月31日(月)
そもそも映画を観るのは侘しい行為である。
だが、行き着くところまで行き着いた虚構は感傷を生む。現実では絶対に避けたい悲劇も、映画で作られたどん底であれば、かりそめのかたちで心に突き刺さる。わたしたちは、心を突き刺されたいのだ。それは涙が滲む暗い溜息が出るような虚しい物語が、我々の心にセンチメンタリズムという、負でありながらも、絶対に美しい感情を与えてくれるからである。
(真魚八重子『バッドエンドの誘惑 なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか』より)
9月1日(火) 「戦時中でも私たちとなんら変わりない日常があった」という考え方自体、まちがっているのでは。感染症がひろがっても「変わりない日常」を送ろうとする、送っていると表現する人もいるが、どこにそんなものがあるのだろう。
9月7日(月) 美容院に行った。マスクを着けたままの状態で髪を切ることについて、美容師さんの技術があがっていた。
10月17日(土)
大震災で経験した人が多いだろうが、悲しみを癒すのは笑いでも激励でもなく、その人によりそう他者の悲しみの記憶だ。悲しみは悲しみの、痛みは痛みの記憶でした癒されないという絶望的真実を(カリン・スローター、リズ・ムーア、エルザ・マルポらは)見すえている。悲しく、辛く、どこまでも残酷であるけれど、だからこそ、救われる。
11月3日(火) 「ABC殺人事件」ポワロとヘイスティングスによるお皿洗いがさいこうだった。
11月4日(水) 元気が出なかったので出さなかった。
12月1日(火) 『刑事コロンボ』「闘牛士の栄光」を見た。舞台はメキシコ。殺害動機を終盤までふせた展開。文化を共有するがゆえに動機がわからない地元警察と、見るもの聞くものめずらしい異国でいつも通りの捜査をして動機にたどりつくが、それを誰も信じないだろうと思うコロンボ。あまりに悲しい話にうちのめされ、年末年始によもうととっておいた深町秋生『ショットガン・ロード』をつい読み始めてしまう。
12月9日(水) KIRINJI LIVE 2020、18:00 開場予定で、18:00 をちょっと過ぎて開場する。18:10 ごろ(?)「リハーサルがおわりましたので、扉を開けてください」のアナウンス! 『ショットガン・ロード』をよんでいたら突然暗転してびっくりした。今日の「悪夢のチーズ」、「ONNADARAKE !」ははくりょくがあった。ダンスと詩はひつよう。
12月29日(火)
どの猫も暗いところでは灰色にしか見えない
(アガサ・クリスティ『ポアロのクリスマス』でポアロが言ったことわざ)
というわけで、今年もお世話になりました。また来年。よいお年を。
おしまい