プール雨

幽霊について

「虎に翼」、楽しく見ています

 新作の連続ドラマを放送から(さほど)遅れずに見ているのはすっごく久しぶりです。単にはまって見ているというだけでなく、「みんなといっしょに見ている」感じがして、それもまた楽しいです。

 登場人物がみんな、ひとりひとり事情や歴史を抱えている重みのある個人としてドラマの中で生きています。物語に人物が従属するのではなく、人物が個々に生きて、それをすこし離れたところから見ると、視点次第ではひとつの物語に見える、という感じです。それは道でただ寅子とすれ違うだけの人や、寅子と花江が卒業した女学校の先生もそうで、今、たままた寅子たちにスポットが当たっているだけで、どの人に当たってもおかしくないと思えるのが楽しいです。

 また、寅子は寅子で朝ドラの主人公らしくない*1。寅子は「どこに出しても恥ずかしくない」と視聴者から認められるような、この家父長主義バリバリ社会で年上の人びとからかわいがられるような、完璧な、あるいは模範的な、または理想の子どもではありません。同時に、主人公であるが故に彼女の言動が物語内の規範となっていくようなこともありません。彼女は彼女の人生を怠けることなく日々生きているだけ。主人公だからといって、物語的に過大なものを背負ってそこにいるわけではなく、自分の人生を生きています。彼女が弁護士試験に受かり、怒りを表明するのは主人公だからではなく、そこまで生きてきた一人の人間だからです。

 とにかく毎日、心が震えて、腹の立つこともあれば、悲しいこともあるけれど、きっと最後には見たことのない景色が見られるだろうとわくわくしています。今、日中戦争中で、この後アジア・太平洋戦争へと拡大して、敗戦して、社会は肝心な部分は何も変えないまま、しかし日本国憲法に結実した人びとの思いと行動があって、それが支えとなって社会が回っていこうとしていた、そのときに、寅子たちがどこに立ってどういうものを背負っているのか、それを見るとき、私たちの社会のどういう部分に光が当たることになるのか。

 これは間違いなく、法を枉げられ、常に監視され管理されている私たちの社会が生み出したドラマで、私たちのその目があって成立する物語です。

 おまけに楽しい。

 勇気をふりしぼり、真実と向かい合おうとする人を見るのは涙が出るほど嬉しいことです。

 話す相手のいない家の玄関で座って俯いている寅子の背中に「おかえりなさい」という優三さんの声。かつて下宿した階段下の部屋のふすまをすぱーんと開けて寅子に相対する優三さん。そしてそのころ、柄にもなく友人のために花岡を問い詰めるよねさんは複雑な表情を浮かべていました。

 あのよねにも、花岡にも轟にも誰にも「二人で働き、二人で暮らしていく」ということが想像もつかない、選択肢のひとつにもなりはしないそんな時、そんな社会です。それを見ている私たちにもそのことがよくわかるから、花岡の痛みも轟の哀しみもよねが受けとめきれずにいる気持ちも見ている側に続々押し寄せてくる。そのときに、寅子と優三さんは「二人で働き、二人で暮らしていく」人生への一歩を踏み出しかけていた。

 これがたったの 15 分で起きたこと。

 ああ、びっくりした。ああ、おもしろかった。

 私は花岡が心配です。花岡は自分個人より家が大事。そういう人生を生きさせられています。だから自分を見失いがちです。時代状況を考えれば「自分より家」はいずれ「自分より社会」になり、早晩「自分より国」になってしまうでしょう。登場人物の中でもっともふらふらした人物で、なにかひとつ掛け違えば身を持ち崩してしまいそうな危うさがあります。

 学生時代、道に迷う花岡を元の道にひきもどしたのは轟でした。もちろん、寅子が、梅子が目の前にいて、花岡の間違いを明るく照らしてはいたのですが、そこに最初に言葉を与えたのは轟です。花岡と同郷で幼なじみの轟。いつも教室では後方に座り、花岡の背中を見ていた人物。この視線が花岡には重要なのではないでしょうか。自分自身を保つために。願わくは、轟よ、花岡にたまには手紙を書いてあげてちょうだいな。ハガキ一枚でいいので、元気か、俺は元気だ、たいへんだけど、がんばローと。それだけで花岡はその身心をクリーンに保つことができるでしょう。

 私は現状、「虎に翼」を「鳩に翼」、「ゆうぞうさん」を「ゆうさくさん」と呼び間違える病にかかっており、重篤です。記憶の中の寅子は「ゆうさくさん!」とうれしそうです。私がこの諺と、世が世なら主人公だった人物の名前を身につけるその日まで、がんばロー。

 それでは近所の薔薇写真を貼って終わります。

銭湯の薔薇

ひとんちの薔薇

駐車場の薔薇

📺 おわり 📚

*1:朝ドラの主人公がみなそう描写されてきたという意味ではなく、朝ドラファンのなかに、主人公に対してすごく求めるものが高い人たちがいて、その人たちによる「朝ドラ主人公=嫁、視聴者=舅・姑」的共同体の営みが確実にあるなあという印象から言っています。