プール雨

幽霊について

夏の終わりに

雨あがり

今週のお題「夏の思い出」

 昨日、二カ月ぶりに美容院で髪を切ってもらいました。おかっぱなので、二カ月整えずにいると、最終的にはまあまあぼさぼさな感じになり、我慢しきれず出先でふらっと切ってもらいました。

 そしたらやっぱり、差別発言を聞かされて、もうここには来ません……と思いました。

 「やっぱり」というのは、しばらく外に出ずにいた人(私)が久々におんもに出てみると、もはや差別発言をまったく耳にしないことがないってくらい、毎度毎度聞かされるトークがあるからです。「○○は普通の国じゃない」または「○○人はこわい」。

 美容師さんはすごく丁寧で、カットの結果にも満足していて、また、今日日、近隣諸国の人をさした根拠もなく、あやしげな「情報」をもとに「こわいねー」などと言うのは「常識」の範疇なのでしょうから、全然悪意もなにもないと思うのですけど、辛い時間でした。美容師さんが私に聞かせるトークとして問題ないと判断していることも含めて、きつかったです。

 ほんとに、たいへんなことになっちゃったなと思いました。「みんな」が言う「ふつう」って、差別を含むんですね。「ふつう」の範囲は激しく狭く、中身は酷い。時候の挨拶みたいに言いますもんね。「外国人」への悪口を。

 でも、そういう人に「それデマですよ」とか「差別ですよ」とか言ってもダメなんですね。

 その人が悪意なく、国の単位でそこに住む人びとを人種化して考えるようになった経緯にはさまざまな事情や人間関係や蓄積、文脈というものがあって、それを他人に直接指摘されても、訂正するどころか、「事実より大事なのは気持ちでしょ」みたいな袋小路にたどりついてよけいまずいことになってしまうわけで、何もいいことがありません。

 一人一人、見て考えて言葉にして行動にするしかないんですよね。

 そして考えるときには言葉で考えるしかなく、それは自分の所有物じゃなく、「みんな」が共有しているものであって、どうしてもその言葉の体系にも傷はある。そういう言葉を極力口にしない。必要な場合にはそれを口にしない理由を言う。明らかな根拠のないことを言わない。論理的であろうと努力する。他人が直面している現実を価値づけたりジャッジしたりしない。それを個々にやっていくしかない。

 もちろん、「そんな面倒なこと!」と思う人がたくさんいるのはわかってる。事実かどうかを気にすることをめんどくさく思う人がたくさんいるのは事実。あらかじめ抱えているいらだちや不快感、怒り、悲しみに、ぴたっと合う「情報」が来れば、頭のどこかでそれが事実じゃないとわかっていても、飛びついてしまう。その後で「それ、嘘だよ」と言われても、自分が抱えてきた怒りの分、時間の分、さらに怒りが大きくなってしまう。

 でも、そのときはそうだとしてもずっとそうだとは限らない。

 自分を振り返ってみても、あとになってから「間違ってた」と自覚することはある。そのとき、自分を許して放っておいてくれた人たちの顔が浮かぶ。赤面する。あんなことがあったのに、一緒にいてくれるなんて。

 と、そんなことを延々考えている夏でした。

 病床にいたので。

 言葉って頼りないなと思いました。伝わらないものだなと思いました。自分だって理解も表現もできないし、刻一刻枯れていくのを感じる。嘘をつくのは容易だし、人は人の言葉を利用するし、盗むし、そんなことをしながら傷ついていくし、なんて頼りないんだと思いました。

 疲れて失語していました。

しょんぼり

 悲しみや疲労は対処するのが難しい。

 コントロールできない。

 自分が回復するのを信じて待つしかない。

 と、このように省みるにつけ、悲しみよりは怒りの方がましってのは、ほんとだなと思いました。怒りをおさえつけない。それを極力正確に表現して外に出せば、後になって自分でも検討できる。でも飲みこんで変形させてしまうと、もうどうにもならない。気持ち悪くなる。後で爆発しても妄想だから共有できない。

 嫌なものを無理に解釈して肯定しなくていい。一旦肯定して飲み込んでしまうと、いろんなもの(事情や感情や)と混じり合って、あとで取り出すのが大変。事実と、自分の気持ちを分けて、両方大事に、慎重に表現しておく。表現したら「かっこ」でくくってとっておく。それが自分を大事にするってことだと思う。

 もしかしたら、怒りには、共有の道すらあるのかも。

 悲しみはそうはできない。悲しみをわけあうのはほんとに親密な相手と親密な空間にいるときでないと無理。

 怒りはそうじゃない。人と言葉のやりとりを経て、公論化することだってできる。言論として開いていける。

 怒りを言葉にしていける、というのが大人になるということなのかも。

 そのためには自分が何を求めているかわかっていないといけない。そうじゃないと気持ちと事実の関係が不明瞭になって全部まじりあって、最後は妄想になっちゃうから。妄想だと単に振り回されて、共有の道が閉ざされる。

夏の終わりの風景
秋の始まり

夏と秋の共演

🐚 おわり 🍁