暑すぎて……
四十二
昔のこと。
男は、その女を色好みと知りながら、交際していた。浮気者だと知ってはいたが、それで憎らしいということはなかった。しばしば女のところに通いながら、浮気をしているのではないかとやはり気がかりで、とはいっても、通わずにはいられなかった。やはり、どうしても会わずにはいられない間柄だったので、二、三日ばかり、差し支えがあって、女のもとに行くことができなかったときに、このように言った。
出(い)でてこしあとだにいまだ変はらじをたが通ひ路と今はなるらん
私が出てきた足跡すらまだ残っているであろうに
その路が誰の通い路と今ごろなっているのでしょう
どうしても女を疑ってしまい、こう詠んだのであった。
二十八段、三十七段と同系統の、色好みの女シリーズ。「とはいっても、通わずにはいられなかった。やはり、どうしても会わずにはいられない間柄だったので」の箇所は原文でも「さりとて、行かではたえあるまじかりけり。なほたえあらざりけるなかなりければ」で、「たえあるまじかりけり」「たえあらざりける」と繰り返していて、心配になります。
四十三
昔のこと。
賀陽(かや)の皇子と申し上げる親王がいらっしゃった。その皇子が、ある女に思いをお寄せになって、侍女として重用しておられたところ、ある人がその女に好意を寄せ、それを態度にも見せていたが、別のある男が恋人は自分だけだと思っていたものだから、その話を聞きつけて、彼女に手紙をやった。その手紙に、ほととぎすの絵を描き、こう歌を添えた。
ほととぎす汝(な)がなく里のあまたあれば猶うとまれぬ思ふものから
ほととぎすよ、お前が鳴く里はあまたあるから
やはりどうしても嫌だと思う
愛しいとは思っても
女は、男の機嫌を取って、こう詠んだ。
名のみ立つしでのたをさは今朝ぞなく庵あまたとうとまれぬれば
うわさばかりが立つ死出の田長のほととぎすは
今朝、泣いています
住む庵があまたあるのだろうと疎まれてしまいましたから
時は五月のことであった。男はこう返した。
庵おほきしでのたをさは猶たのむわが住む里に聲したえずは
住む庵の多いほととぎすをやはり頼りに思うよ
私の住む里でその聲が絶えないならば
賀陽親王は桓武天皇の皇子で、「伊勢物語」成立から一世紀前くらいに実在した人物です。その親王が目をかけていた女性に、言い寄る男性が現れたと。じゃ、親王とこの人との三角関係なのかなと思っていたら、別にもう一人男性がいて、その人が詠み手の贈答が始まります。「もう一人来た!」と驚きの構成です。
最初の「ほととぎす……」の歌は「古今和歌集」の「夏歌」に詠み人知らずで収められています。古今集の夏歌は冒頭 135 番から 164 番までずっとほととぎすの歌が続きます。さらに、ほととぎすの歌はこの夏歌だけでなく恋歌にも収められています。初夏に渡ってきて、自分の巣を持たず、その季節最初の鳴き声を「忍び音」と呼ばれてしまうほととぎす。二首目、三首目に出てくる「しでのたをさ」は「賤(しづ)の田長」とも「死出の田長」とも言われますが、ほととぎすの別名です。「古今和歌集」には素性法師のこんな歌がのっています。
ほととぎす初声聞けばあぢきなく主さだまらぬ恋せらるはた
ほととぎすの初声を聞くと懐かしく
誰ということなく人恋しくなってしまう
懐かしいというだけでは済まない
巣をもたない渡り鳥の切ない声に、古代の人は恋情を仮託してきたのですね。
ちなみに、この「名のみ立つ……」の話で始まる、在原業平自筆版伊勢物語があったということが伝わっています。現存しないし、二次資料もほとんどないので、どんな感じだったのか、想像もできません。そちらはどんな話で、どういう構成だったんでしょう。こないだ定家の新資料が出たことがニュースとなっていましたが、ああいう風にどこかの蔵にでも、うっかりあったらいいのに、業平自筆本(を転記したものでもなんでも)。
四十四
昔のこと。
地方官になって田舎へ行く人に、別れの餞をしようと、自分の家に呼び、気を遣う仲でもなかったので、家刀自が席に出て使用人に杯を用意させ、旅立つ人に女性の装束を贈り物として与えようとした。家の主の男は、歌を詠み、それをお祝いの裳の腰に結いつけさせた。
出でてゆく君がためにと脱ぎつれば我さへもなくなりぬべきかな
都を出て行くあなたのためにと
裳を脱いで差し上げましたので
喪も私自身もなくなってしまいそうですよ
この歌は数ある中でも興趣あるものなので、心の中にとどめて、声に出さず、心で味わうべきものです。
「家刀自」を「主婦」と訳すのもなんだかしっくり来ないので「家刀自」のままにしました。刀自は女性の敬称で、「家刀自」はその家でもろもろ采配する女主人のこと。主の妻とは限りません。親かもしれないし、娘、伯母、ということもあったでしょう。
通常ならば、男性客の前に女性が出てきて酒をすすめるということはないのですが、「うとき人にしあらざりければ(気を遣う仲でもなかったので)」、客前に出てきて酒をすすめさせ、餞別に女性の正装一式を送った、という状況です。正装の衣服は貴重品なので、こうした餞別または褒美として渡すことは一般的なことでした。そのお餞別の服の裳に、主が歌をつけてあげた。
古来、ここに登場している「県(あがた)へ行く人(地方官になって田舎へ行く人)」には紀有常をあてて読むことが多いようです。そして家の主人を業平と考えると、家刀自は有常の娘ということになるので、餞の場にいるのは自然だし、彼女が贈り物に衣を用意していること、その衣に主が歌を付けてあげること、すべてしっくりくる話です。娘が親の出立にあたって「我さへもなくなりぬべきかな」と歌うとすれば、なるほど、という感じがしますし、裳に喪をかけて、不吉なことは「なくなりぬべきかな」とも歌っていると考えると、出立の現場にふさわしいです。全体として素朴な感じがするんですけど、技巧的でもあって、「心とどめてよまず、腹にあじはひて」と後注らしきものがついているのも、納得です。
📚 まだ半分も来ていない…… 📚